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中編小説「押忍」(25)

「病状が致命的な段階まで進行している場合、すい臓は摘出しません。既にその段階ではないからです。但し癌細胞に侵されたすい臓は、それ自体が一つの悪性腫瘍であると考えてください。他の臓器への転移の可能性を少しでも減ずるため、初期段階ならば摘出する方が」
 そこで木下医師は一息置きました。少しでも生存率は高まります。
「分かりました」
「次に放射線治療ですが、これは放射線によって癌細胞を照射し殺していく治療です。放射線には、細胞のDNAに直接作用し分裂する能力を減じたり、細胞が自ら死んでいくアポトーシスという現象を増強する効果があります。放射線に照射された正常細胞も同じ作用を受けますが、正常細胞はいずれ照射前の状態に回復するケースが殆どです」
「結構な治療じゃないですか」
「但し、放射線だけで全ての癌細胞を漏れなくピンポイントで照射することは、現在の医療技術では不可能です。焼き殺したと思ったらまた増えて、また焼いて、のイタチゴッコとなることも稀ではありません。血中の白血球値が下がり体の抵抗力が落ちたり、胃や腸に放射線が当たることで下血や便潜血が生じる副作用もあります。またすい臓周りの臓器は放射線に対する耐性が強くありません」
「―化学療法というのは」
「いわゆる抗がん剤の投与です。薬を静脈から点滴します。抗がん剤が血液よって全身に行き渡るため、癌の進行を遅らせるには最適な療法と言えましょう。但し抗がん剤は種類によって食欲不振や倦怠感を引き起こしますし、ドラマにも出てくるように、頭部の毛髪が抜け落ちることもあります。また抗がん剤だけで治癒する癌は今のところ少数派で、すい臓がんは薬の効きにくい癌のグループに属します」
 沈黙が部屋の中を支配しました。エアコンの音ばかりが耳に響き、僕も孝子さんも身じろぎひとつしませんでした、できませんでした。
 木下医師にとっては慣れた状況なのでしょう、彼は感情を排した、そして中学生にも理解できる言葉でこの病気について説明してくれた後、僕らに何らかの決断や何らかの発言を急かすこともなく、ただじっと虚空を見つめていました。
「僕らはどうすればいいのですか」
「私なら村田香さんの同意を取り付け、すい臓の摘出を決断します。その後化学療法をメイン、放射線をサブとした治療を根気強く続けていきます」
「―了解しました」
 
「私もついていきましょうか?」
 病室に向かうリノリウムの廊下。足裏に感じる粘りけ。長い道でした。人生で二度と歩きたくない道でした。
「俺ひとりに説明させてください」
「―分かりました」孝子さんはドアの横で待つことにしてくれました。
 病室の扉を開けると、加奈さんの姿が今日もそこにありました。彼女は顔を上げ、僕を見て、瞬時に状況を理解してくれました。「私、コーヒーでも飲んでくるわ」

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