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一週遅れの映画評:『ジョゼと虎と魚たち』それは「純愛」に相応しい。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ジョゼと虎と魚たち』です。

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 田辺聖子、というより私の中では「お聖さん」と呼ぶ方がしっくりくるのだけど、彼女の原作『ジョゼと虎と魚たち』を初めて読んだのは確か中学生の頃だから、たぶん1996年ぐらいだったと思う。1984年に発表された作品をそのタイミングで読んだのは、私が当時日本のちょっと古いSFに、具体的には星・筒井・小松あたりにめちゃくちゃハマってその流れで筒井のエッセイに友人として出てくる「お聖さん」が気になって手に取った、という流れ。
 
 それでその後2003年に実写映画化されて(確かこの時はくるりが主題歌だっていうので観に行った)、今回2020年に劇場版アニメとして制作された……なんでそんな話をしてるかっていうと、つまりそれは私がこの3つの『ジョゼと虎と魚たち』をそれなりに時代の空気を体感しながら読んで見てきたっていうのがこれからする話に重要になるからなんだけど。
 
 いちおう注意しとくと、ここから結末のネタバレに入るからね?いいね?
 
 この3作品、もう結末が明らかに違っていて。
 原作版は「恒夫と結ばれ事実婚のような関係になる。ジョゼはその幸福を噛みしめながら”いつかくる終わり”を覚悟している」
 実写版は「障害者であるジョゼを支えていける自信のない恒夫が、自分たちの間に愛情があることを確信しながらも別れを選ぶ
 アニメ版は「恒夫とジョゼは障害を乗り越えて結ばれる。未来はどうあれ、いまは確かに幸せである
 っていうものになっている。
 
 でね、これって絶対に時代の空気と密接に繋がっているわけで、具体的には「景気」の話と「障害者の生きやすさ」の問題なのね。
 
 まず原作が書かれた1984年/昭和59年は、高度経済成長のあれだ「所得倍増計画」からなる戦後好景気がオイルショックだなんだでいったん落ち着いてしまって安定成長期に入り、それ裏では急激な開発による公害の問題がどんどん襲い掛かってくる時代で。
 だから戦争で負けたけどめちゃくちゃ成長して、それでもその成長は永遠に続くわけじゃないし、そこには大きな問題が潜んでいたって社会がまずある。いまはすごく幸せで、でもその幸せはいつか絶対に終わってしまうけど、でもそれがいつなのかはわからない。だから原作でのジョゼは「完全無欠の幸福は、死そのものだった」と語る、ここで、この幸福で留めておくこと、これからくる終わりをその可能性を手放すための「死」と幸福がイコールで繋がれる。
 それで昭和ってはっきり言って障害者にはめちゃくちゃ厳しい時代なんですよ、やっぱり。政府の援助も足りなければ世間の目も冷たい。「車椅子を理由もなく突き飛ばす悪意」ってアニメ版でも描かれていたいたけど、原作にもそれはあって、正直当時を生きていた身としてはすっごいリアルな存在なの。
 だからジョゼの感じる「いつかくる終わり」って本当にちょっとしたきっかけ、わずかな瑕疵であってもそこに強い社会からの圧力がかかってあっという間にバラバラの粉々にされてしまう「終わり」としてヒリつくぐらい身に迫ってくるものであるわけ。
 
 次に2003年/平成15年の実写、まぁこれを聞いてる人は2003年ぐらいだと物心ついてる気がするけどバブル崩壊が1992年前後で……このころは”まだ”「失われた10年」って言われてた超不景気の世界。もうこのころって社会がめちゃくちゃ不安だったわけですよ、バブル景気のすごくお金があった時代は知ってる、知ってるだけにそこには戻れないっていう辛さはひとしおで。それでいてこれから景気が上向いていく気配なんて全然なくてどんどん貧しくなっていく、いまはまだバブルの遺産でなんとか社会が体裁を保ってるけど、それは近いうちに使いきっちゃってそうなったらもうどうしようもない時代になる。そんな空気が蔓延している。
 だから当時の大学生にとって「絶対に大変な障害者との生活」に怯えてしまう。自分のことすらどうにもできなくなってしまう将来がリアルに迫ってるのに、誰かを支えて生きていくことなんて不可能に思えるし、最悪共倒れの未来さえ見ている。だからここで恒夫がジョゼから離れてしまうのってもうホントに「どうしようもないよね……これはひどいけど……ひどいけど、わかってしまう」っていう話で。
 それに加えて確実に昭和の頃よりは福祉もマシにはなっていて、障害者とはいえ支援を受けて自活している人は……まぁ当然苦しいけどいるわけで、そういった意味において恒夫が手を放してしまったからといって、ジョゼがどうにもならなくなってしまうわけではない(あくまでも昭和59年との比較の話ね)。だから恒夫も手を「離せてしまう」っていうことに繋がるわけですよ。
 
 それで2020年/令和2年、もう「失われた30年」というか完全に「終わってる社会」と化した今ですよ。恒夫が22歳、ジョゼが25歳、もういまの景気が悪い社会で生まれて育って今に至る世代なわけで。この二人にとって情勢って「悪いのが当然」の世界でしかない。だからこれ以上良くなる未来も見えないけど、一方でみんな悪いままというかこれからも悪くなっていくのだから、ある種の達観と呼べるものがある。
 恒夫はジョゼを助けることができるし、ジョゼは恒夫を救うことができる。そしてなにより二人の間には愛情があって、それはきっとこのいま悪くてこれからもっと悪くなっていく世界の中で、たった一つだけ自分たちの手の中にある確かな幸福である。
 原作のジョゼが感じている「いつかくる終わり」。それはこのアニメ版のジョゼも感じてはいるのだけど、その終わり方が違う。原作では「関係の終わり」の予兆なのだけど、アニメ版で予兆されているのは「ふたりの終わり」である。実写版では「ジョゼを手離せば共倒れしない」という部分から恒夫は別れを選んでしまうが、このアニメ版の時代では「ひとりだろうがふたりだろうが、いつか倒れる」という社会は自分たちを見捨てるだろう、という感覚がある。だからこそ「どうせどうなっても終わってしまうのだから、だったらいまここの幸せを信じたい」という結末を選ぶ。
 ついでに平成10年代と比べれば(決して満足いくものではないけれど)障害に対するサポートも手厚くなっている。だからジョゼと一緒にいることのハードルは下がっている。
 
 1980年代から2020年まで、その変遷を追えるこの『ジョゼと虎と魚たち』3作はこの明らかに異なる結末が確かに時代を映している。
 そのなかでアニメ版の「僕らは絶望の中で生まれて、そこで見つけた仄かな灯りを手放したくない」というメッセージは確かに「純愛」という看板を掲げるのに相応しいものだ。
 
 作品評としてはここまでなんだけど……うーんと、こっからはすげー個人的な話でさ。
 私は3年前に脳出血でブッ倒れて、いま右半身麻痺で障害者手帳持ってんのね。つっても日常生活に支障がゼロじゃあないけど90%……90は嘘だな、まぁ8割程度は問題ないってぐらいの軽い障害なんだけど……後天的に障害があって手帳が取れるくらいだけど普通に生活できる、これって要はアニメ版の恒夫とジョゼの中間ぐらいの存在なわけよ。そういって立場から見てると「ジョゼが強靭すぎてマジ憧れる」ってのと「恒夫はメンタルが雑魚すぎる」って感想になって、これ「むしろ”いつかくる終わり”に怯えるべきなのは恒夫の方だろ」って思いましたね。
 それはたぶん作品も自覚的で、動物園でトラをジョゼが見に行くシーンが2回あるんだけど、最初は吠えるトラに怯えるジョゼだったのが、2回目はあくびとかしてダラダラしてるトラなわけ。これってジョゼが明らかに「トラ」が象徴する社会に対して「やってやるぞ」を手にしている、ってことで。
 庇護される者から、立ち向かう者への変遷としての「30年間のジョゼ像」みたい部分も含めて、かなり好きな作品になりました。恒夫のヨワヨワっぷりが気に入らないから「大好き!」まではいけなかったけどね。
 
 お前はトラだ!トラになるんだ!がおー!

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 次回は『新感染半島 ファイナル・ステージ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの11分ぐらいからです。


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