祖母の見送り

 2017年秋のはじめに、祖母が逝った。
 水曜の夜10時頃、母から電話がかかってきて、「明日お通夜で翌日お葬式だけど、来なくていいからね」と言う。子どもを連れて大阪から島根まで移動するのはそれなりに大変だからとの気づかいだった。わたしは「なんで、行くよ。電車でも車でも行けるから」と答えて電話を切った。

*

 結婚して家を出るまで、おおむね年に三度(盆暮れ正月とゴールデンウィーク)祖母に会いに行っていた。祖母の家は島根の山あいの集落にあって、家の前には田が広がり、裏には畑、隣家は百メートル先という田舎だった。ここ数年でずいぶんましになったそうだが、長く携帯電話の電波も入らなかったような場所だ。余談だが、横溝正史の小説を読むとつい祖母の家を思い出してしまう。

 晩年は施設に入所していて、家を訪ねても祖母には会えなかった。わたしもそのころは生活に追われていて、島根まで行くことがめっきり減っていた。
 2016年の年末、祖母が亡くなる半年と少し前に施設を訪ねたことがあった。祖母はすっかりあらゆること(娘である母のことでさえも)を忘れてしまっていたが、何やら機嫌よさそうににこにこと笑っていた。なんの憂いもなくただ笑顔でいて、幼い女の子のような無邪気さがあった。
 わたしは「おばあちゃん、来たよ」と言って手を取った。その手は小さく骨と皮ばかりではあったけれど、日に当たらないから真っ白で、水仕事もしないからつるりとなめらかだった。それはわたしの知っているかさついた祖母の手とはまったく違っていて、まるで絹のようにうつくしい手だった。
「おばあちゃん! わたしのよりずっときれいな手!」
 いっしょにいた母も「そうなんよ、不思議やねえ」と言って笑っていた。
 きっと人は歳を取るごとに子どもへと帰って行くのだと思った。生きてきたあいだに背負った荷物を記憶とともに下ろし、子どもへと帰って行くのだ。祖母との短い面会のあいだ、わたしはそのしろい手をずっとさすり続けていた。

 冠婚葬祭のやり方は地域によってさまざまにことなる。大阪の地元では通夜の翌日告別式を行いそのあと火葬となるが、島根では通夜の翌朝火葬ののち告別式の順だった。前火葬というそうだ。
 夕刻まえに到着し、祖母の遺体に手を合わせて白い布をそっと剥がした。人が亡くなったときの「眠っているみたいだね」というお決まりの文句があるけれど、紅をさした祖母は本当に眠っているように見えて、思わず笑みがこぼれてしまった。半年前さすり続けた手と同じく、つるんとしてうつくしい頬だった。

「あの遺影のおばあちゃん、ちょっと若すぎじゃない?」
「20年くらい前のじゃないの」
「お母さんにそっくりなんだけど」
 ひさしぶりに顔をあわせた親戚とそんなふうになごやかにやりとりをしていたら、間もなく葬儀社の職員の男性と近所の住職が連れ立ってやってきた。
 祖母の葬儀における文化的違いでいちばん驚いたのは、故人の死装束を遺族でととのえることだった。着物から笠、足袋や草鞋もすべて遺族の手で着せてやるのだという。
 わたしは正直に言ってたじろいでしまった。たとえ親族であっても、ご遺体に直接手を触れた経験がなかったからだ。しかしちゅうちょしている間に脚絆を渡されてしまったので、否応なくやるしかなくなってしまった。
 葬儀社の男性が、死装束のそれぞれが持つ意味について教えてくれた。これまでにも何度か親族の葬儀に立ち会ったことはあるのになぜ死装束についての記憶がないのかと思ったら、そもそも浄土真宗ではそれを着せないからだった。浄土真宗の教えでは、死後まもなく極楽浄土へ行くので必要ないのだそうだ。だから故人が生前好んでいた服を着せてやることが多いのだとか。
 祖母の家は曹洞宗の檀家だ。死者は頭陀袋と六文銭を持って、巡礼の旅に出るのだという。笠をかぶり杖をついて、仏様のいらっしゃる国へ旅立つのだと。脚の悪かった祖母も、死してのちはきっとかくしゃくとして歩いて行くのだろう。畑仕事で曲がってしまった背も、しゃんと伸びるだろうか。

「こんなに冷たくなって……」
 着物の前をあわせながら、伯父がぽつりとつぶやいた。それでわたしはそのとき、肉が削げた祖母の手のぬくもりを思い出した。ビールが好きで、グラスに注いでやろうとすると「ちょんぼし、ちょんぼし(少しという意味の出雲弁)」と言いながらもぐいぐい美味しそうに飲む姿を思い出した。祖母の作る濃い味付けのおかずを思い出した。幼いわたしが山を走りまわっていると、「そげなことしちょったらあんた、まくれるわね(そんなことしてたら転んでしまうよ)」とはらはら心配してくれた祖母を思い出した。
 伯父の言葉がさざなみのように部屋じゅうに広がって、みんながみんな、それぞれにさみしさを抱いてじっと祖母を見つめていた。
 わたしは細く白いすねに脚絆をあてがい、ひもを結んだ。うまく出来たかどうか自信がない。祖母の旅路の途中ほどけて困らせていないか、今でもときどき心配になる。

*

 遠方に住んでいた祖母と、いったいどれだけの時間を一緒に過ごせたのだろう? 一年のうち十日ほど、それが二十年と少し。数字にしてしまえばほんのわずかで、その寂しい響きがわたしを何やら落ち着かない気持ちにさせる。
 けれど言うまでもなく、祖母と過ごした時間は数字ではない。わたしはお彼岸が来ると母とおはぎを作り、正月には醤油すましに岩のりの雑煮を作る。人に「ありがとう」と気軽に言い、貰いものはまず仏前に供える。生前祖母がそうしていたように。それはとりもなおさず、過不足などひとつもない、祖母とわたしの記憶だ。

 ところで祖母のことを思い出すとき、そのほとんどが食べ物に関連していることに気がついた。裏の山で掘ったたけのこで土佐煮を作り、笹の葉でちまき餅を作り、よもぎ餅を丸め、つくしを佃煮にした。大ぶりのしじみで味噌汁を作り、ときどき境港で買ってきた立派な鰤を一尾まるまるさばき、収穫したふきを炊いてごはんにのせて食べた。その米も祖母が伯父と作ったものだ。大晦日になると杵と臼で餅をつき、年が明けたらお屠蘇と雑煮、お重に詰めたおせちを必ず用意した。出雲大社に初詣に行くと、大判焼きにたこ焼き、島根ワインを必ず買って帰った。そうやって食べ物のことばかり次から次へと思い出されるのが可笑しい。
 はて祖母はなんと言っていたっけ、と考えてはみたが、そう言えば出雲弁の訛りがきつくて、いつだって何を言っているのか半分もわからなかったのだった。「英語のほうがまだ聴き取れる」と言って母に通訳を頼んだことも一度や二度ではないし、何を言われているのかわからないままウンウンとうなずいたのだって数え切れない。
 食べ物を通じて祖母と交流していたのかと思うと、締まらないような、戸惑うような気持ちでなんだか笑ってしまう。意地汚い気もしてはずかしくもある。たぶん祖母のほうもわたしの大阪弁をほとんど理解できていなかった気がする。意思疎通のはかれていない祖母と孫なのだった。

 さて巡礼の旅に出た祖母はいまどこにいるのだろう? 死後の世界のことには明るくないので、もしかするともうすでに浄土にたどり着いたのかもしれないけれど、まだ旅の途中ならぜひとも祖母に教えてあげたいことがある。
 おばあちゃん、善光寺に着いたらお焼きとお蕎麦食べてな。美味しいし、たぶん好きやと思うで。

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