見出し画像

もやもやを言語化しないということ


「言語化できているとき、人は前に進まない。」

言語化すること・文章にすることに価値を置きがちなわたしにとって、最近印象的だった言葉。言語化するということは、その枠にとどまるということ

もやもやしているときは、ある時期からある時期に移るさなぎのような時期で、もやーっとして辛いけれど、それは(自分のなかで)前提としていることが覆されるときなので、そのもやもやが大事なのだとその方は言っていた。

わかりやすい例だと、上手く行くカウンセリングとそうでないカウンセリングの差は、患者の側にあるのだという。患者が明確に症状や悩みに原因が説明できているとき、なんと、症状がよくならないのだそうだ。冒頭に書いた通り、言語化できているときはそのロジックで終わってしまっていて、先に進まないからだ。逆に、症状に気づいてぼやっとして説明できない方が、その気づきから変化が生まれる。


最近、ものすごくもやもやするのだけれど、そんなことが頭の片隅にあったので、できるだけ無理に言語化せずに、頭のなかに答えにならない問いがぐるぐるして辛いのだけど、その今しかない感覚を味わっていた。


noteには言語化できていて誰かにシェアしたいこと、整った文章だけを書くことに(なんとなくだけれど)していたのでかなり抵抗がある。けれど、そんな今しかないもやもやを、言葉にしつつももやもやしたまま、ありのまま残してみようと思う。



自分て他人からどう思われているのだろう?とふと思う瞬間

わたしは人と話しているとき、特に初対面の人だと、ちょっとした声の波長や話の内容などから、「この人緊張しているなぁ」「プライドから自慢がしたいのかな?」「わたしに興味なさそうだなぁ」と観察してしまう。(そんなジャッジ?はせずにわたしが相手にどう接したいのかだけなのかもしれないけれど、影響はしてしまう…)

でも、わたしは逆にどう見られているのだろう?そして、わたしがどう見られたいか考えて動いても、わたしが相手に対してどう思っていようと、客観的に見えていることがすべて。そうなると、相手のことは簡単に判断してしまうくせに、自分はどう見られているのか、簡単に判断されていると思うと切ない。

どうしたら「諦めのジャッジ」をせずに目の前にいる人との関係を深められるのだろう。そして、もしかしたら「相手に理解されないかもしれない(理解できないかもしれない)」という不安から、ジャッジをしているかもしれない。それも、どうしたら避けれるのだろう。

わたしは比較的、自覚的な性格なので、人と話しているときの自分と、そのうしろにもうひとりいる自分を見比べて、「そうですよね~」といいながら「それほんとに思って言ってるのかなぁとか」「この人なんでその話ずっとしてるんだろう?」とか思っていても、

その場の空気を壊したくないし、嫌われたくないし、別にほんとに嫌だと思ってるわけじゃないんだから笑いながら言えたらいいんだろうけど、変なところまじめだから冗談ぽく言うこともできない。でも勘ののいい人には気づかれているんだろうなぁって思う。



知りたい情報しか得ていないことへの不安

人は気づかないうちにできるだけ考えないようになってしまっている。自分が知りたいこと、楽に得られる情報しか知ろうとしない。わたしだったら、Twitterのタイムラインを見るのが一番楽で、気づくとTwitterを見てしまう。もちろん、自分でフォローしている人の情報と、たまに関連する情報が流れてくるだけだ。

自分の知りたい情報しか得ていない、と気づいて携帯を手放す。でも頭が、目が、暇になったらまた携帯を手に取って、Twitterを見る、の繰り返し。

わかっていても、慣れていない方法で情報を得るのはかなり負荷がかかるし、手を付けるのにも時間がかかる。例えばわたしだったら本や雑誌はなかなか手に取ろうと思えない…。




先駆的なものじゃなきゃダメなの?

この前、界隈では人気のWebメディアを運営する方が、

「 "まだ誰もやっていないけれど潜在的に求めているもの" をかたちにするのが流行りをつくるってこと・売れるってことだよね」

という趣旨のことを、さらっと言っていた。その通りだなぁと思う反面、まだ誰もやってないことしかやっちゃだめなのかなぁと思った。

今自分が携わるサービスも、本当にいいと思っているし、他にはない良さがあると思っているけれど、ぶっちゃけ似ているサービスはあるなぁと思うし、これから爆発的にヒットするかと言われれば(もちろんそうなれるようにがんばっているけれど)わからないし、爆発的なヒットを出すことだけがいいことではないと思う。そうでなくても、目の前に必要としてくれる人がいるから。

そうわかっていても、心のどこかで、おんなじようなサービスがあり触れていてつまらないなぁと思ってしまうこともあるし、まだ誰も気づいていない、気づいていてもかたちにできていないものをサービスにしてみたい…!という野望みたいなものが自分のなかにあることに気づいてしまう…




偉い人ってマウンティングをし続けた結果なんじゃないか説

最近、イベントの運営や司会、たまにゲスト的なことをさせてもらう機会が出てきた。そのなかで、わたしの仕事の話などに対して「すごいですね~!」といういわば憧れ的なスタンスで話しかけてくださる参加者の方がいたりする。

これは、わたしなんかはまだ序の口で、日々イベントのゲストとして登壇されているような方々にとっては日常だと思う。でも、「すごいですね!」と言われても、「ありがとうございます!」としか答えられなくて、そこから会話が生まれない。まだなにか聞きたいことだったりがあれば会話も弾むかもしれないけれど。

(ちなみに、わたしはそれに気づいてからは、自分が参加者側でゲストの方と話したい・関係性を深めたいときは、自分からできるだけ関わり方を提案したり聞いたりするようにしている。イベントの手伝いしてもいですか?とたずねたり、今度どんな活動をするのか聞いたり。)

そういう参加者の方と仲良くなれない・対等な関係になれない、というのを人が言っていたのを聞いて、わかるなぁと思った反面、

そういうちょっとしたマウンティングみたいなのを繰り返して、「偉い人」になっていくのかなぁ、と思ってしまった。そういう瞬間に、自分が微妙に、ほんの少しだけれどマウンティングをしているんじゃないか、と怖くなった。

自分はそんな風にしたくないと思う反面、登壇している方が偉いんだ、という関係を作ることでそのイベントが成り立っている、ともいえる。だけど、それを繰り返して、つまりその人より下になる人を増やすことで、「権威」みたいなものが大きくなっていくような…




研究者と消費者の乖離

最後は、わたしのメインの仕事ともいえる、イベントの企画・運営に関して思うこと。

最近あるイベントに、お手伝いで参加した時のこと。ゲストの方と参加者のレベルが明らかに違うな、と感じる瞬間があった。

ゲストの方は話がうまくて、イベント中は参加者の人がわかるようなとてもおもしろい話をしてくださった。けれど、

(当たり前だけど)そのテーマで十分話せる、そのテーマを普段追究している人なので、本当はもっと話したいことなんていくらでもあるだろうしもっと専門的な話だってできる。

イベントに参加している人の多くは、全然悪い意味ではなく、まだ行動に移せていなくて、そのきっかけが欲しくて、軽めの学びが得たい、という人だと思う。本当にそれを極めたかったら、それを仕事にしたり、インターンや弟子として入ったりする気がする。

一方で、なにかすでに行動・探究をし始めている人の多くは、あまりイベントに行かないいのだと思う(あくまでわたしの体感だけれど)。

そうだとすると、参加者=消費者と、ゲスト=研究者のあいだには(そのテーマに関しては)ものすごい乖離がある場合も多いのではないか。

もちろんそのあいだを埋めるのがイベント企画者の腕が試されるところなのかもしれないけれど、ゲストの方が研究しているようなことを同じようなレベル感で学ぶ人はいないのだろうか。参加者のレベルに合わせてばかりでは、どんどん研究者と消費者のあいだの溝が深まるのではないだろうか…



今日この日のわたしの、等身大のもやもや。




読んでいただきありがとうございます。サポートいただいたお金は、ちょっと元気がないときにおいしいものを食べるために使います。