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気付けば、カーマスートラを読んでいた。

恋多き、と言われるが、いまだ本当の幸せを追い求める身分。齢35にて、こうなろうとは思ってもなかったが、はて、20代まったく恋愛に努力してこなかったゆえ、致し方ないことと心の整理をつける。

周囲は子供の成長、妻との対話に身を委ね、時に浮気心と格闘をする。そんな彼らを物ともせず、私はここ数年、愛だ恋だ、この子とのディナーはどこに行けばよいのか? 2度目のお誘いはどうするべきかということに、心と時間を費やしてきた。

以前、アウターゾーンという漫画でタイムワープの力を手にした人物が、その力を悪用しすぎた罰として、ワープがバグり、永遠に自分が死ぬ瞬間にワープするという地獄のループに陥いるのを見たことがある。これが自分の身におきたらと肝を冷やしたが、今の状況は限りなくそれに近い。

31歳で大失恋をしたのち、数人とお付き合いをしたりもしたが、どうもハマりきらず、1年と持たないことが続いた。その後、「この人は!」と思った人が現れても、自分が押せば押すほど、引かれることが続き、身を焦がした。

最初のご飯まではとてもスムーズ。その会も大層盛り上がるのに、次に続かない。そんな事態を友人に相談したら「君は短距離走すぎる」との助言をいただいた。つまり、私が好きになるのが早すぎて、恋する気持ちのズレが生じ、先方が「ちょっと待って、そこまでじゃないから!」と、離れていくという図式だ。

ここ1ヶ月ほど、またもや周囲の結婚ラッシュ、婚約ラッシュである。30代に突入寸前の同僚や、同年代の男女。しかも、出会ってから短いというのが特徴で、「運命の人とやっと出会えた」的な言葉もよく聞く。なんとも、そんな気持ちを持てるというのは素晴らしいことであり、自分にも早くそのパズルがハマる感覚が欲しいものである。しかし、パズルのピースたる自分がいびつな形をしていたら、ハマるものもハマらぬ。

難しい。「お前、こじらせてるなー」という言葉を聞くことがあるが、先日自分に向けてこの言葉が放たれた。本の話をしている時のことだ。見城徹「読書という荒野」の本を読み、そこで紹介されていた五木寛之「燃える秋」を読んだ。

そこから五木さんの「愛について」にいき、興味の赴くままに流れていたら、古代インドの性愛論書「カーマスートラ」にたどり着いた。同僚に、その本を読んで、インテリ風に愛とは何か考えている、と得意げに話をした。すると、

「35歳の独身男が、家で古代の性の本読んでること得意げに語るって、相当キモいし、拗れてる」

と爆笑された。それはそれは、驚くほどの爆笑だった。自分としては、まぁ、ちょっとサブカルでインテリ風味で、でも、性とかもダイバーシティに受け入れる器量の大きさを見せ、尊敬とか、『ふなぴーってやっぱり面白いねー』ぐらい言われると思っていたが、ところがどっこい。

はたから見たら、ただの“こじらせの極み”だった。その時の天変地異加減たるや、思い出すだけで、ケツから火が出そうなほど恥ずかしい。

そして、これを解消する術を探していて、こうやって文章を書いているのだが、そもそもこの行為もこじらせている気がしてならない。

いつになったら、このループから抜け出ることができるのか。その答えは神のみぞ知る。いや、神もそんなこと気に留めてなさそうだが。

カーマスートラの詳しくはこちら。人間は何千年経っても変わらんのよ。


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