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だいたいの不機嫌は自分のせい

人間の意識は随伴現象であるという説がある。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」というジェームズ=ランゲ説なども近い話だ。

日々の自己や他者の観察を通じて、実感としてはどちらかというとこの説を支持している派だ。

しかし、それを大々的に認めていては「自由と自己責任」という概念が崩壊して、法体系が成り立たなくなるので、一応社会的建前としては「人は自由意志を第一原因として行動をしている」ということになっている。しかし、たぶんそれは真実ではない。


マンウォッチングをしていると、最初から「怒ろう」としてイライラしながら起こる対象を探している人がいる。そして適当なターゲットを見つけたら、準備万端、怒りをぶつける。

「あー、やっぱりか」とか思うが、当人は「怒るべき対象がたまたまあったから怒った」と思っていて、「怒りたい」という姿勢が最初にあったとは思っていない。「自分の意思で怒った」と思っており、「怒らされた」とは思っていない。

人の心の内などわからないので真偽は永遠に不明だが、まあ、見ていて多分そう。


会社に不満があるとか、評価に納得がいかないとか、仕事が不毛でモチベーションがわかないとか、特定の人がダメで嫌だとか、人に話を聞くと大抵なんらかの「悪者」「スケープゴート」を仕立てて、自分の不機嫌を説明する。

ところが「そうなんだ」と真に受けて、エビデンスを探すとそういうものは無い。おかしい。

曖昧だという人事制度はこれ以上なく厳密なものであったり、つまらないと言われる仕事はやりがい溢れている意義あるものだったり、ダメだと言われている人と会うと極めて誠実で有能な人だったり(ダメと言っている人の方が大抵残念な場合が多い)、「会社が会社が」というから「(会社って人はいないので)具体的に誰のどういう行動ですか?」と聞いても出てこなかったり。


そして、本当の理由は「認めたくないもの」であるのだろう。

自分の無能さや魅力の無さ、欲望や感情を抑える能力の欠如、妬み嫉みなどの悪意、体調の悪さ、金遣いや酒、交友関係などの日々の生活態度の乱れなど、結局、「自分がダメ」だから不機嫌になっているのに、ダメな人であればあるほどそれを認められない(認められる人はそんなにダメではない。むしろえらい。ええ、僕自身はダメ人間ですよ)。

要は、自分の意識の中に浮かび上がる怒りや不満などの不機嫌の感情があると、こんな感情になるのは何か原因(自分を傷つけないものに限る。つまり外に敵を作る。まるでどこかの国のように)があるはずだと考えて、いろいろ周りを見回して悪者を探して、なんやかんや難癖をつけては心理的冤罪を作り上げているのだ。


そんなこんなで、自社の経営をする際や人事コンサルティングをする際には、様々な人から聞く話を鵜呑みにしないようにしている(元々はすぐ信じるタイプなので意識している)。話半分に聞くようにしている。

そして、そういう主観的な話は「随伴現象である」と考えて、行動などの客観的事実をベースとして真の原因を考えるようにしている。


だいたいの不機嫌は自分のせい。何かを攻撃したくなったら、本当の原因、つぶすべき敵は自己のうちにないか、考えてみたい。

しかし本当は人間は突き動かされて生きていることが多いと考えないと、現実的な問題解決は難しいのではないだろうか。経営者や人事や政治家など、現実に責任を持つ人は、「言ってることより、やっていること」で人を判断すべきだろう。

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