脳内氾濫危険水位

この気持ちも苦しみもどうせ、寝てしまえば寝ることさえできればいともたやすく消えてしまう。じゃあ、さっさと床に入ればいい。眠ってしまえば、いい。でも簡単にそれができたらこの苦しみなど存在していなかっただろう。瞼を閉じても脳内VRが勝手に映像を流し、脳内スピーカーが勝手に音を流す。考えてもいない思考までも流入し、脳は氾濫する。もちろん、平気であるわけがない。とにかく焦って焦ってそわそわして何かに追われているような、何かを忘れてきたような訳の分からない不安に押しつぶされそうになる。この不安はどうやって鎮めればいい?沈めればいいの?どうか、ただ眠れなんて言わないでくれよ。そんな残酷な言葉は実質自殺ほう助だ。そう思うぐらい、この不安は死へとつながる。不安は唯一、死によって解決する。だが、そう簡単に死ねるものか。死にたいと言って三秒後にすぐ死ぬ人間はそうそういない。そんな肝の座った人間は端からこんな濁流にのまれることなどない。死にたいという気持ちは、本当に苦痛や未来から逃げられないがためにあの世へと落ちるしかないという本当の意味での死にたいも含まれているが、実際はきっと助けてほしいのだと思う。自分だってそうだ。できることなら、この苦痛を取り除いて今までみたいに楽しいことがあったら笑って、悲しいことがあったら泣いて生きていきたいさ。正常な感情で、外的要因によって作動する感情を使って理性的に生きていきたいのだけれど。そうやってまた一過性のネガティブの中で叶わないことを願う。夢幻に期待してしまうんだ。過去を生きることなどできないのにもう事実か幻かもわからない過去を生きようとしてしまう。また自分で自分の首を絞める。でもなんだかそうやって自分の首を絞めるような行為は苦しいだけのはずなのにどういうわけか心地よく感じることがあるのだ。精神的にも肉体的にももう、苦痛の虜である私は苦痛にまた苦痛を重ねてしまう。そして思い切り涙を流して肩で息をするほどにまで声をからして泣いて、明日は死ぬんだと思って、またなんでもない朝を迎えて空笑いをするのだ。氾濫した脳だってすぐ収束する。なんでもない私が昨日の私を冷めた目で見て笑っていて、それをネガティブにとらわれた私は警告するようなまなざしでぼーっと見つめる。これの繰り返しなんだ。寝ても覚めても同じこと。外的要因は関係なく突然感情がくるりと入れ替わる。まるで別人のように。それなのに、寝ろだって?あと何万回朝を迎えればいいんだ。寝て覚めてを繰り返すほど、私の絶望は増していくばかりなのに。


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