虚しさだけ

あ、僕この人の事ぜんぜん好きじゃない。何にも感じない。なーんてスイッチが切れるとふと気づいてしまうのだ。最初のころは、友達も恋人もいないもんで自分この人の事気に入ってるのかな、一緒にいると楽しいのかな、まあ知らんけどそうなんだろう。なんて無理やり捻じ曲げて感じようとしてしまう。周りの人にもそう言っておいたほうがいちいち何か言われなくて安心する。でも、心の奥底では何にもないが正解なんだ。好き嫌いもなく、ただ道端に落ちる石ころや街路樹、空の雲。そんな風景のように感じている。孤独、退屈という私が苦痛に感じる概念を緩和するために飽きるまで遊んでふと何も感じていないことに気づいたとき、相手に見限られたとき、ゴミ箱に捨てるように人間関係をリセットし代わりを見つけに行く。なんなら、自分をいじめてきた人間がいて、その場では強い怒りを感じていても時間がたてば一緒にご飯にも行けるし、雑談もできる。嫌い?嫌いだったのかもしれないけどまあ利用できるならそれでいいじゃないか。と思っている。許す、受け入れる、こんなことが簡単にできてしまう。スイッチが体内にありそれの切り替えによって自分が動いているという不思議な感覚がある。それは単純に元から人間になんて好きになったり嫌いになったりするほど興味がないからではないか。夜、ベッドの中でこんなくだらないことを思い出して感傷に浸った時に今まで仮に満たされていた心が突然空っぽになるのだった。
僕はさきほど、孤独や退屈が苦痛だと書いた。何にもないことが嫌いだが、大きな目標や夢があるわけでもない。その場しのぎな人生かもしれない。でも、孤独や苦痛を緩和し、もっとも幸福をもたらしてくれるのが征服感や達成感だ。僕は基本、人間関係を都合のいい奴かどうかで判断してしまい好き嫌いがよく分からない。そして、その都合のいいというのは自分よりも弱いと感じるやつだ。ああこいつを支配できている!動かせている!と感じたとき、その人を自分より下の人間だと思い征服感で満たされるのだ。それと同時に自分の領域が侵されないという安心感を得ることもできる。これらは捨てがたい、僕の人生の中での大切な要素である。だが、僕が思い描いていた友人とは何か、愛とは何かという定義から大きく逸脱してる。僕が思う、友人というのは今のプライベートな人間関係と一致している。目的もなく、信頼もなく、ただわいわいできるやつのことだ。親友というのはただわいわいと楽しむだけの存在ではない。信頼関係があり、両者が対等であり、互いを成長させられる存在なのだと思う。愛というのは、誰かを特別扱いし、許すことだと思う。征服感や安心感を得るために周りにいる人間を見下しておかなければならないとなると親友は作れない。それに、誰もかれも興味がなく悪い意味で平等に接して、許容していると、みんなを愛しているかのような状態になるが、特別扱いなんてしていないので誰も愛せなくなってしまう。親友や愛する人がいることが人生のすべてとは限らないが、僕はそういうものを少しロマンチックに思い、そういう感情そのものに恋焦がれるのだった。誰かに恋をしていてもきっとそれは恋に恋をしているだけであり、恋人の事に興味が持てる気がしないのだ。
そして、達成感。これは、自分の中で前よりも何かができるようになった、こういう考えができるようになった、見下せる相手が増えてきたと感じたときに強く感じる。達成感や何かを得たときの満足感は努力をする理由になり生きる理由になり、とても大切なものだ。だがしかし、僕はこの達成感や征服感の中毒者になっているのではないかと感じている。最終目標があるかないか、達成するかしないかなどどうでもよくて、結果的にこの二つの感覚さえ味わえていれば何でもよく、そのためならリスクすら犯してしまう。そしてこの感覚は全て自己解決してしまう。他者とのかかわりによって感情は発生するもののそれが心の渇きを潤すことにつながることはなく、結局は自分の内側だけで満たされてしまう。これが慢性的な空虚感、孤独感につながるのだ。だからといって僕はどう変われというのだろう。また、まただ。その場しのぎの癒ししかない、苦痛の沼の虜なのだろうか。

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