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創造力とコミュニケーション能力は二律背反か

タイトルで疑問形にしといてなんだが、基本は二律背反だろうというお話です。
北野唯我さんというキレキレのキャリア論を展開する論客がいるが、近著に「天才を殺す凡人」http://a.co/1hA77rFいうタイトルのものがある。その中で、創造力を最大の特徴とする天才(マイノリティ)は、共感力を最大の特徴とする凡人(マジョリティ)に理解されず、多数決で殺されるという内容があるのだが、まさにその考え方が基底になる。


創造って、最初は個人的行為から始まるはず。その価値が分かるのは自分だけ。他の人に上手く伝える事が出来れば、共感が広がって価値が出てくる。これだけ見れば二律背反にはならなさそう。だがしかし、価値がすぐわかるモノってたいてい既にあるものに近くて模倣困難性は低い。他方、価値のわかりにくいものは当然上手く伝わらない。そこでコミュニケーション能力の高さが大事になってくる。ここまでは普通の話。
ややこしくなるのはある程度以上のコミュニケーションにおいては、互酬性が高くなるという点だ。つまり、言いっ放し聞きっぱなしでは成立せず、双方が合意する形がコミュニケーション成功の形となるはずだ。この合意プロセスにおいて、アイデアが骨抜きになっていく可能性が高い。異なる価値観でのコミュニケーションを強いられる、社内新規事業開発などがうまくいかないとよく言われるのはこの原理が作用していると言われる。チームで共有しても理解→協力を得られず、上に持って行けばミドル同士でのリソースの取り合いに巻き込まれ、役員には本業への貢献を前提に入れ込まれる。
このように、より多くの人と上手く合意しようとすればするほど、元のアイデアの尖った部分を削る作業を行う事になる。そして前に書いた通り、創造力を鍛えるには創造していくしか道はないワケだが、コミュニケーションを取れば取るほど、この本来の創造が出来なくなっていくジレンマがある。ダヴィンチにせよエジソンにせよ、社会を変えた大発明家は孤高であった。日本よりアメリカの方が破壊的発明(いわゆるGAFAのやってる事)が起こり易いのは、個をベースにするか、和をベースにするかで、創造性が生き残る確率が変わるからでは無いだろうか。こと私たちの生きる日本においては、「衆愚に陥る合意」これを全力で避ける仕組みが必要だ。


ここまでの話を、家族の食事会で妻の父としていたところ、
「そうは言っても、衆知を集めた創造性というのも存在する事は確かだよね。」
という指摘をいただいた。衆愚になるのか衆知になるのか、その境目を見ると、場作りのヒントがあるのかも知れない。思えばGoogleもAppleも共同創業している。同じ船に同じ価値のモノサシを持つメンバーを乗せれば、創造性の生き残る確率は上がるのかな。
衆知から立ち上がる創造とは、これすなわち
創発を指す。こうして考えると、軽々に創発を起こそう!とか言えなくなる。このスローガンに手応えが持てない状況があるとすれば、それはただ衆愚に陥っているから。この認識を持たないと、(組織論における)創発って流行り言葉で無くなっていくんだろう。創発の場作りに関してはファシリ系のトピックでまた書いてみよう。

このnoteも、キャッチーなテーマが書けるライティングスキルを身につけれたら良いなと思っていた側面も正直あるのだが、今回の話からすると何ものにも迎合せず、自分の評価軸のみで書きまくる方が、創造力は高まるんだろうと思い直した次第である。

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