遮光 中村文則

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彼らがどう思っていたにしても、私はその日、楽しかった。大きな水門も、よく跳ねた魚も、私には新鮮であり、不満などなかった。

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が、私はこの錯覚を、自ら進んんで受け入れていた。そして元々、この錯覚自体も、私自身が自ら進んで呼び出したような、そんな気さえした。それはまるで、指から逃れようとする自分を戒めるような、痛めつけるような、そんな行為に感じられた。が、しかし、私は指から離れようとしていただろうか。

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私は改めて、指そのものに意識を向けた。この指の標本は、美紀の体から、私が作成したものだった。が、それは前から、美紀が死ぬ以前から、元々私の中に存在していたものであったような、そんな気がした。この中には、私が今まで選んでこなかったもの、私が蔑ろにした陰鬱な世界が、入っているような気がした。私は今まで、その中に戻ろうとしていたのだろうか。

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少なくとも指だけを見ていれば、私は何かをしでかすことなく、自分の世界というか空間を、境界で囲うことができるはずだった。それは、私が誰にも迷惑をかけずに、生きることを意味する気がした。が、私はそんなことを気にするような人間ではなかった。私はむしろ、そういうことを気にする人間に、なるべきでなかった。それは善良な人間が持つことの出来る、そういう特権であるような気がした。

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私はそれから茫然とし、話すことができなくなていた。力が抜け、私は自分が嘘をついているような、そんな気がしてならなかったのだった。私は涙を浮かべ、ほとんど発作的に郁美に話していたのに、こうやって後から意識してみると、私にはどういうわけか、そう思われてならなかった。私にはこんな風に、感情にまかせてものを言った記憶があまりなかった。やはりこれは、私の演技であるのかもしれない。いや、きっと、そうに違いないのだろう。