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『不確定都市バベル』第9章:試験運用の幕開けと予想外の衝突
朝のバベルはいつも通りの活気に包まれていた。企業の広告やAIユグドラシルが生成する案内表示がビルの壁一面に映し出され、出勤ラッシュの人々がせわしなく行き交う。
そんな喧騒の中、結城ナツメは少し緊張した面持ちで中層階の商業区を見下ろしていた。試験運用(プロトタイプ)の実施場所となる区域の高層ビル群を、スタジオの窓から遠望しているのだ。まだ動きは感じられないが、今日からいよいよ――自身が“ノイズの実験場”と呼ぶプロジェクトが動き出す。
朝のチームミーティング――走り出す初日
ナツメがスタジオに戻ると、マコトと緑川、江森がすでに集まり、パソコンのモニターを囲んでいた。テーブルには資料や端末が散らばり、チーム全員が「大丈夫、問題ないだろうか」と落ち着かない様子を見せている。
今日は商業区の一画に設置したセンサーとホログラフィックディスプレイの試験稼働初日だ。数台のカメラや端末を通じて、街の通行人の動きやSNSへの投稿情報、さらにはナツメのバイオデータ(同意の上で簡易ウェアラブルを使用)がリアルタイムに収集される。そこから“偶発的なノイズ”を生み出し、街頭ディスプレイや道端の投影装置に“予測不能な映像・音”を発信する――いわば小さな都市実験だ。
「よし、機材チェックは完了しました。昼前くらいまでに一通り稼働状況を見て、不具合がなければ正式にSNSでもアナウンスしてみますか?」
マコトが確認しているのは、チーム内で取り決めた進行プランのスケジュールだ。あまり大々的に宣伝しすぎると、初日から混乱を招いてしまう恐れがあるため、最初の数時間は“試験的に動かすだけ”にしておき、問題がなければ一般市民への告知を拡大するという段取りである。
「スポンサー側も、初日には口出ししないって言ってましたね。もちろん、あとでレポート提出は必須ですけど」
緑川がそう言いながら、スマホの画面を見せる。そこには深見らがいるスポンサーグループとのチャットが表示され、最低限の確認事項だけが淡々と書かれている。
「ふう……結城さん、準備は大丈夫? あんまり寝てないみたいだけど……」
江森がナツメを気遣いながら声をかける。ナツメはこめかみをさすりながら苦笑した。
「うん、大丈夫。まだ頭は冴えてるし、何かあってもマコトやみんながカバーしてくれると思ってる。今日はひとまず“最初の一歩”を形にする日。成功しても失敗しても、ここが始まりだよね」
そう言うナツメの瞳には、不安と高揚が入り混じった光が宿っていた。いまも躁状態寄りなのか、それともギリギリのバランスを保っているのか――自分でも判別しきれない。しかし、ここまで来たら走り出すしかないと覚悟を固める。
静かに動き出す街――プロトタイプ初稼働
午前11時。商業区の一角では、何も知らない通行人たちがいつも通りに行き交っている。その上空を横切るように浮かんだホログラフィック投影装置が、ひっそりと稼働を開始した。
最初は音もなく、薄い光がアスファルトの上を舞う程度。それが行き交う人々の動きやSNS投稿の数値を拾い、徐々に形や色を変えていく。遠巻きに見ていた数人が「何かやってるの?」と興味を示し始めた。
「なんだ、映像が少しずつ変化してるぞ……?」
「歩くスピードによって模様が変わってる? すごい、なんか面白いね!」
通行人は戸惑いながらも、何らかのアートイベントだと認識し、スマホのカメラを向ける人がちらほら現れる。やがてSNSに「いま商業区の○○通りで不思議な投影があった」と写真付きで投稿する人も出始めた。
スタジオでは、その投稿を即座にチェックしていたマコトが「お、さっそくSNSで反応が出始めました」と声を上げる。
「まだ大きな混乱は起きてないようですね。順調な滑り出しかもしれない」
ナツメはホッと胸をなでおろし、同時にほんの少し物足りなさを覚える。まだ“平和”すぎるのだ。せっかくの不確定要素を最大限に生かすには、もっと大胆な演出や、ナツメ自身の気分データを積極的に連動させる必要があるかもしれない――そう思い始めたところで、マコトが言葉を続ける。
「でも、初日からあまり派手にやりすぎると、スポンサーも ‘危険だ’ と言い出しかねないから、段階を踏んでいきましょう。結城さん自身も今日はなるべく無理をせず……」
「……分かってる。でも、チャンスがあれば、思い切って仕掛けたい気持ちもあるんだよね」
ナツメは揺れる思いを押し殺しながら、モニターに映る街の様子をじっと見つめる。ここで起きるわずかな“ズレ”や“ノイズ”が、どんな形で人々に波紋を投げかけていくのか――その可能性を信じたい。
ユグドラシルの監視と微かな拒絶反応
昼過ぎになると、大型ディスプレイに映し出される広告が少し乱れ始めた。通常ならユグドラシルが最適化したCMやニュースがテンポよく切り替わるはずなのに、短い間隔でノイズのような映像が混在するのだ。
どうやらナツメたちが設置した演出用のシステムが、ユグドラシルの広告データを割り込む形で“予測不能なビジュアル”を挟み込んでいるらしい。市役所からは「事前にその予定は聞いていない」と指摘される可能性もあるが、半ば強引に仕掛けた形だ。
すると、街頭ビジョンを見上げていた人が戸惑いながらも「何だこれ?」と笑い混じりに呟く。SNSには「バグ?」「新しい広告演出?」という投稿が増えていき、一部では小さな話題になり始めた。
「いい感じに ‘ノイズ’ が広がってるな……」
ナツメは思わずテンションが上がりそうになるのを感じるが、その一方で「これ、やりすぎじゃないか?」というマコトの不安げな視線も感じ取る。
案の定、数十分後には杉浦局長から電話が入った。どうやら市の開発局が「AIユグドラシルの広告枠に異常が発生した」と報告を受けているという。
「結城さん、少しやりすぎですよ。ユグドラシルの権限設定と絡んで面倒なことになりかねないんです。あとでスポンサーサイドが騒ぎ出す前に、一度私の方でも調整を……」
局長の電話越しの声は、穏やかだが焦りと困惑が滲んでいる。ナツメはひやりとしながらも、「申し訳ありません。一時的なテストがちょっと強めに反映しちゃったみたいで……」とやんわり弁明するしかない。
意外な盛り上がり――メディアの注目と批判の声
夕方になると、ちょっとした“事件”が起きた。現地のローカルTV局が、偶然通りがかった記者を派遣して、商業区で起きている謎のホログラフィック演出を取り上げ始めたのだ。ディレクターいわく、「噂になっている面白い現象がある」とのことで、街頭インタビューを行い、その映像を生放送で流し始めた。
テレビ画面には、買い物客や観光客が驚いた顔でホログラムを見上げたり、奇妙な音声が交じる大型ビジョンをスマホで撮影したりするシーンが映し出される。興味津々で「こういうの大好き」「アートイベントなのかな?」と笑顔を見せる人がいる一方、「子どもが怖がる」「ちゃんと許可取ってるの?」と不安を口にする人もいる。
スタジオのモニターでその生中継を確認したナツメは、思わず立ち上がり、小さくガッツポーズをした。
「すごい! 早くも報道されてる。こうなったら、もっと人が集まるかも……」
しかし、同じ映像を見ていたマコトのスマホには、スポンサー側からの着信やメッセージが殺到していた。「こうなると余計に批判も増える」「深見さんが頭を抱えてる」という書き込みがあり、一部では「そもそもバベル市の広告システムを乱して大丈夫なのか?」と疑問視する声もあるようだ。
ナツメは高揚と不安がごちゃ混ぜになり、心臓の鼓動が早まる。こんなに早く注目されるとは想定していなかったが、これを“成功への追い風”と捉えるか、“過激なトラブル”と見るかは、見る側の視点次第だ。
深見からの警告――スポンサーの本音
夜になると、案の定、深見からマコト経由で呼び出しがあった。「こんな形でメディアに取り上げられるのは想定外だ。今すぐ事態を把握し、過度な混乱を招かないようにしてくれ」という要旨だ。
ナツメはマコトとともにオンライン会議に接続し、深見や他の幹部数名の怒りに似た問いかけを浴びる。
「結城さん、あなたの言っていた ‘小規模試験’ の範囲を超えているんじゃないですか? メディアが騒ぎ出しているのに、何の準備もできていないとはどういうことです?」
深見は声を荒らげることこそしないが、明らかに苛立ちを露わにしている。ナツメは言い訳がましくならないよう、できるだけ冷静に答えた。
「想定より注目が集まったのは事実です。でも、今のところ大きなトラブルは発生していませんし、街の方々にも概ね好意的に受け止められていると見ています。これで ‘制御しきれないノイズ’ の面白さをアピールできれば……」
「それが問題なんですよ。 ‘制御しきれない’ なんて、スポンサーからすればリスクにしか見えません。今日の放送だって、私たちに事前連絡が一切なかった。」
ナツメはぐっと言葉を詰まらせる。緑川や江森ら“応援派”はこの場におらず、マコトだけが苦い顔をしている。スポンサー側はあくまで「安定した管理と計画性」を最重視しており、今回のような予想外の展開を歓迎するわけがない。
そこで杉浦局長が仲裁に入るように口を開く。「とはいえ、せっかく人々が興味を示し始めたんです。ここで慌てて止めるのももったいない。市としても、これを‘新たなプロモーションチャンス’と捉えることができれば――」
「お言葉ですが、杉浦局長。私たちは芸術祭が成功してくれるなら構いませんが、今後これ以上のトラブルを引き起こされては困る。結城さんが躁状態を加速させるような演出を続けるのであれば、無責任としか言いようがないですよ」
深見の言葉に、ナツメは心がズキリと痛む。“躁状態”というワードを持ち出されると、自分の病気がリスクであると改めて突きつけられたような気がしてしまう。
「……無責任は承知しています。それでも、私はこの実験が人々にとって意味のあるものだと思っていて……もう少しだけ時間をもらえないでしょうか」
絞り出すようなナツメの声に、深見は渋々と「分かりました。ただ、これ以上騒ぎが大きくなるようなら検証を一時停止する覚悟でいてください」と言い残し、会議は終了した。
不安定な夜――ナツメの心に迫る影
オンライン会議を終えたナツメは、スタジオの机に突っ伏すようにして、大きく息を吐いた。心なしか、先ほどまでの高揚がぐらりと揺らぎ、突き落とされるような感覚がこみ上げてくる。
「……深見さんに ‘無責任だ’ って言われると、頭では分かってるけど、やっぱり堪えるな……」
ナツメの弱々しい声に、マコトは複雑な表情を浮かべた。スポンサー側の感情も理解できるし、ナツメのやりたいことも分かる。その板挟みにいる自分がもどかしい。
「でも、見てください。今日だけでSNSやメディアの反応がこんなに増えてる。意外と ‘面白い’ と言ってる声も多いんですよ。話題になったらスポンサーだって動かざるを得ない。きっとナツメさんのアイデアが評価される日が来ます」
「……うん。そうだといいけど……。本当に ‘評価’ なんてされるのかな……」
視界の端がじわりと滲む。いつ躁状態がしぼんでうつの谷底へ落ちるか、自分でも分からない。その恐怖が冷たい水のように胸の中に満ちてくる。
「大丈夫。あすこそは、緑川さんや江森さんとも合流して、次の一手を考えましょう。必要なら医療関係者の方を交えて調整すればいい。今日のうちに全部が決まるわけじゃありませんから」
マコトの声は優しかった。ナツメはかすかに笑みを浮かべ、背筋を伸ばす。「そうだね……まだ始まったばかりだし……もう少しだけ頑張ってみる」
揺らぐAI――ユグドラシルの反応
夜が更け、街頭ビジョンからも“ノイズ映像”が消え、翌日に備えてシステムの一部が自動メンテナンスを始める頃。ユグドラシルの管理サーバでは、膨大なログデータが機械的に処理されていた。
そこにはナツメの言うところの“制御不能な要素”が山のように記録されている。人々の不意の笑いや驚き、SNS上での賛否、そしてナツメ自身の脈拍や体温にまつわるバイオデータ――ユグドラシルはそれらを数値化するたびに、“不確定性”を感じ取っているかのようだった。
「解析結果:再現困難な行動パターン増大。最適解の算出に齟齬(そご)が生じています。」
無機質なシステムログが、夜のサーバルームにこだまするかのように表示される。ユグドラシルは完全な管理のもとに効率と快適さを提供するAIだが、今回のナツメの実験は、その根底を揺るがす情報を流し込んでいる。
果たしてAIは人間の“不安定さ”をどう処理しようとしているのか――答えはまだ闇の中だった。
明日への光と影
深夜、スタジオの灯りを落とし、ナツメはソファで浅い眠りにつこうとしていた。緩やかな不安が頭を締めつけ、「眠らなきゃいけないのに寝られない」という悪循環の入り口に差し掛かっている。もしこのまま眠れずに朝を迎えたら、体力も精神もまた危ういかもしれない。
それでも、今日一日で感じた手応えも確かに残っていた。街に生まれた小さな“ノイズ”が人々をざわつかせ、メディアを動かし、SNSを揺らしたという事実――そこにナツメは、双極性障害を抱える自分の存在意義を少しだけ重ね合わせていた。
躁と鬱は相反するものではなく、同じ道の二面性なのかもしれない。自分が落ち込む日もまた来るかもしれないが、それでもこの街のアートは“ノイズの連鎖”として続いていくだろう。ユグドラシルがどれほど合理的に整合性を求めても、人間の不確定さは消えないのだから。
夜のバベルは、ビル群のネオンを静かに瞬かせている。行き交う人々はそれぞれの物語を抱えながら、また朝を待つ。ナツメもまた、苦しみの底を這いながらでも「明日はきっと何かが起こる」と信じたい――そうして、静かに瞼を閉じた。