自殺

寒くなり自殺を企図する人間が増えている。中には誰にも知られずにひっそりと死んでいく者もいるだろう。しかし私の知る限り、彼らの多くは親しい友人にその旨を打ち明けたり、SNSに投稿するなどして、自らの意思を表明しているように思う。私はここでは彼ら自身ではなく、彼らの計画を伝えられた側の人々について考えたい。

自殺を決意するまでに追い詰められた人間に、他人を慮る余裕の無いのは私自身よく理解しているつもりだ。断じて彼らを責めるべきではないし、またその原因を彼ら自身に求めるべくもないことはここに強調しておきたい。しかし、彼らが自殺を予告する際、それを受けた他人はどのような衝撃を覚えるだろうか。それが個人間で伝えられたものであれば尚のことである。そのような悲痛な叫びを、他人事と聞き流すことのできる人間はそうはいない。多くの場合は彼らのことが心配で自分のことに手が回らなくなったり、適切な対処方法がわからずに狼狽してしまうのではないだろうか。死にたがっている人間を引き止めることの是非についてまで考えを巡らせて、自己嫌悪に陥ってしまうケースも珍しくはないだろう。私はこのような状況、死のうとしている人間がそれを予告することによって、生きている人間に多大な影響を与えてしまう状況を常に危惧している。

そもそも弱みを見せるという行為は、それが意図的か否かに関わらず、多かれ少なかれ受け手に対し支配的な効力を持っている。卑近な例を挙げれば、「体調が悪い」という発言は心配や配慮を強制するものだし、「家に帰れない」という発言は一般に居場所の提供を要求するものだろう。自殺予告とは自身の弱みを見せるという点で最たるものであり、更に悪いことにその明確な解決方法が存在しない。本人がその予告によって何を求めているのか、他人にはもちろんのこと、恐らく本人にさえよくわかっていないからだ。

自殺予告をする人間には死ぬつもりがない、などと言うつもりは毛頭ないが、私は彼らの多くは自らの思考の更に奥、無意識下において実のところ生に執着しており、それが本来自殺の完遂を第一に考えれば障壁となるはずの、予告という形で発露されていると考えている。そのため私は私に対して自殺を予告する人間には問答無用で死ぬべきではないと伝えているし、具体的な方法があればそれを阻止している。これはもし彼らが今後の人生でよりつらい思いをし、「あのとき死んでおけばどれだけよかったか」と私を恨むことになったとしても知ったことではないという、私のエゴによる行為であり、そのような意味で「人助け」とはかけ離れたものである。

しかし、自殺志願者を助けようとした場合には話が変わってくる。そもそも構造的に、彼らの救いが自らの死にある以上、他人が彼らを助けようとすればそれは彼らを殺すか、或いはその幇助以外に方法はないだろうが、法的にも倫理的にも、それを許すことの出来る人間はそうはいまい。しかし悪いことに、自殺予告を受けた人間の多くは、どうにかして彼らを助けようとする。このような場合に、私が危惧している状況──死のうとしている人間が、生きている人間に多大な影響を与えてしまう状況──が発生してしまう。これは人間の善意を踏みにじるものであり、悲劇である。重ねて言うが、断じてこの際自殺志願者に、ましてやそれを助けようとした人間に罪は無い。誰にも非が無いからこそ、それは悲劇なのである。

長々と述べたが私が何を言いたいのかというと、自殺を決意するほどの苦しみを抱えているのであれば、まずは適切な機関にアクセスするべきだということだ。或いはその機関が正常に機能していないという問題もあるのかもしれないが、思うに我々が親しい友人に打ち明けてもいいのは、それで心が晴れる程度の愚痴か、解決可能な悩みだけである。或いは全ての人間が、他人の自殺予告を受けても動じない心を持つことでしか、悲劇はなくならないだろう。


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