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オープンGの、テレキャスター ─ラバーソール、リーヴァイス、それから赤DEP(3)

3 ストレイ・キャッツ、そして鉄馬

 大学3年になったばかりの春、念願のバイクを手に入れた。
 カワサキのEN400TWINというアメリカンだ。GPZ900Rのエンジンを半分にしたようなエンジンを積んでいたので、バイク誌と一部のマニアからはハーフ・ニンジャと呼ばれた。ローンを組むのはかなり抵抗があったが、バイクで日本一周する計画もしていたのでローンにした。カドヤのボンバーっぽい茶のライダースの革ジャン(30年以上経ったいまでも着ている)とウベックスのジェットヘルと第二次大戦のパイロット仕様のヴィンテージっぽいゴーグル、プロショップ・タカイのライダースブーツ、風魔プラスワンのレインスーツとシュラフも買った。

 それからはあちこち走りっぱなしだった。朝も夜も、雨が降ろうが暑かろうが寒かろうが、雪以外の毎日、日帰りや一泊ぐらいで九州じゅうを走った。当時スーパースポーツが大流行し、アメリカンなんてオッサンバイクと揶揄されてマイナーな存在だったが、僕の頭の中はあの『イージーライダー』の光景が広がっていて、アップダウンとギャップと鉄板の多い日本の道を、アメリカの、どこまでも真っ直ぐな道にむりやり重ね合わせて、最高の気分だった。

 ツーリングにのめり込むにしたがって、だんだんナガセともバンドとも疎遠になっていった。ナガセもバンドも流れる風景と一緒に遥か背後に飛び去っていく感じがしていた。

 あれはいつだったろうか。夏前だった。はやく梅雨が明けないかなと思っていた。

 ナガセから電話があった。そのころにはお互いにほとんど連絡さえもとらなくなっていた。いや、正確に言うと僕がほとんど家にいなかったのだ。あのころは着替えだけとか荷物を取りに来ただけとか、まるでノラネコみたいな生活をしていた。夜通し走ってそのまま大学の授業に出ることなんて日常茶飯のことだった。

 電話のむこうのナガセの声が少しおかしかった。はれぼったい感じ、調子も妙に明るいというか、変だった。

「オサダ?」
「おう。ひさしぶり」
「あのくさ、頼みのあるったい」
「なんや? 久々にギグばやるか?」
と言ったのは後ろめたさからだった。ナガセは特に答えることもなく言った。
「明日のくさ、一時に天神コア前に来てくれんな」
「どげんした?」
「俺のくさ、テレキャス……」
「おう」
 ナガセは少しのあいだ黙ったあと言った。

「買わん?」

「は?」と聞き返す僕にナガセは続けた。
「だけんさ、俺の黒のテレキャス、3万で買わん?」
「なんば言いよっとか。キサン(貴様)、クラすど」
 思わず怒鳴りつけていた。いっぺんに頭に血が上った。家まで行ってぶっ飛ばしてやると思った。電話を切ろうとすると、電話口の向こうからナガセの笑い声が聞こえてきた。ナガセはへらへらした調子で笑い、「いや、酒がな」と言った。
「は?」
「酒が呑みたかったい。金が足りん
「ナガセよ」
「おう」
「なんが酒か。こんシャバ僧が。キサン腐ったオヤジか?」
「おうおうシャバかったい腐っとったい」
「酔っとうとか?」
「酔う? まあいつもやけん、別にいつもの俺たい」
「バンドは……」
と自分で言いかけて言葉を呑んだ。

「バンドは……、なんか?」

 ナガセが言った。そう言ったときだけ、昔のナガセの声だった。けれど同時にそれは、僕を責めているような冷たく怒りが滲んだような声だった。
「なんでんなか(なんでもない)」
しばらくお互いに黙った。

「わかった。買う」

 そう言うと返事も聞かないまま電話を切った。友だちとは決して金の貸し借りや売り買いはしない、と決めていた。その上での返事だった。

 翌日天神コア前で合流した。ナガセはテレキャスターの入ったソフトケースを重そうに担いできた。全然酒臭くはなかった。お互い「ようっ」の挨拶もしなかった。3万払った。
 ナガセがうつむき加減にギターを渡そうとするのを僕は両手で押しとどめた。

「ナガセ、俺のテレキャスば預かっとって」

 『俺の』のところを強めて言った。預かってくれと言ったのは、せめてものお詫びだった。いや、ギターをやめるなと言えない後ろめたさだった。そして一縷の望みでもあった。どうしてもナガセにごめんと言えなかった。
 ナガセはうつむいたままだったが、何度かうなずいて背を向けるとそのまま去って行った。以来、ナガセからの連絡はなくなった。僕からも連絡することはなかった。

 その夏、僕は1ヶ月ちょっと使ってバイクで日本一周の旅に出た。
 
 4年生になって、バブル絶頂期のなか、周りが就職の内定話に花を咲かせているとき、本屋に行って中田祝夫という人の『考究古典文法』という本と、オー・ヘンリーの薄い英語の本を買って勉強した。憧れのトウキョウの、憧れの国文学科を受験するためだ。
「オサダ、いつまで学生ばやるつもりか?」 「働け」
「甘いったい」
「大人にならんばも」
「社会は厳しかったい」
「世間知らずが」
「まだ夢んごたもん見とうとか」……
ほとんどの友だちはみんなエラそうに僕に説教した。

 まだ夢を見ているのか? 現実を見つめろ。

 どこかで聞いたセリフだと思った。僕にとっての現実が、あいつらにとっての「甘い夢の世界」だとするなら、ざまあみろ、と思った。あいつらは自分たちでくだらないつまらないと散々ほざいていた社会とか大人とかいう世界に、大学卒業だから、4年たったから、というただそれだけの理由で、手の平を返したみたいに馴染んでいこうとしている。大した割り切りだ。これからも、せいぜい割り切って、年相応に無難な毎日を過ごしていけばいい、つまらないオヤジになっていけばいい。ただの老いぼれになっていけばいい。俺はあいつらとは違う、俺はエースにはならない、ベルボーイにはならない、ざまあみろ、と思った。けれど、そういうオマエは結局ただのリーマンでさえない、何者でもない、何も持っていない、無用の者だ、という現実も重くのしかかっていた。
 そんな思いを抱えながら河合塾の冬期講習に通っていたとき、遊びに来たイイダが、何を思ったのか、唐突に言った。

 「オサダ、迷たらつまらん(いけない)」

 とても嬉しかった。
 イイダに言われたことはその後もずっと残っていて、折々に頭の中で蘇った。そのせいで軽率な言動につながったり、短絡や失敗を招いたりもしたが、僕の中では、鹿児島で暮らしていた小学校時代によく言われた「泣こかい飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」ということわざとも重なって、自分にとてもしっくりくることのように思われた。

 公認会計士として僕に後を継いでほしかっただろう父親は、何も言わなかった。そんな父に対してあのころは何とも思わなかったが、いまは、どれだけの思いだったのだろうと思う。
 そういえば、バイクの免許を取るとき、バイクを買うときだけは父は大反対した。理由は命に関わるから、だった。車なら構わない、バイクはダメだと言われた。
「バイクは事故したら自分も必ず怪我するか死ぬ。車は人を死なせることはあっても自分は助かる」
 そう言った父を憎んだ。どういう考えだと思って心の底から軽蔑した。けれど父は、どれだけの思いだったのだろう。30年経って自分が父親になったいま、そう思うのだ。

 4年生の冬、雪のちらつくなか、限定解除の試験に合格した。当時、限定解除は教習所で取ることはできず、試験で合格する以外に方法がなかった。5回目にしての合格なので割に早い方だった。すぐに400を手放して残りのローンの返済に充て、ホンダのV45マグナというアメリカンを買った。
 憧れのナナハンだった。完全受注生産方式だったが、大学の行き帰りに毎日のように寄っていたバイクショップコウタケという店の店長が、僕が限定解除するより前に発注して店にディスプレイしてくれていたので、即、手に入った。
「RC28、よかエンジンよ。これは誰にも売らん。オサダくんのやけんね」 
「誰にも触らせんでください」
 そう言って限定解除に燃えた。店に行くたびにまたがっては「俺のバイクやけん」と言っていた。因みにカワサキの方はモトスピリッツという店で、店長と整備の兄ちゃんが、いかにも職人気質な人だった。無愛想で商売下手で、そこがまたよかった。
 左右に2本ずつ斜め上に突き上げた4本マフラー、キャスター角も大きく、フロントフォークがアメリカンらしくきっちり傾いていて全長2300ミリ超、シート高が695ミリのローポジション。市販車とは思えないあんなにかっこいいデザインは未だにないと思う。アメリカンのくせに運動性能も抜群だった。水冷だという点とアンダーカウルがついている点、それからリアホイールがアルミディッシュホイールだという点が独特だった。アメリカンの王道からすれば異端で、もはやアメリカンとは言えないという批判もあった。乾燥重量が226キロ。当時の国産の国内向け市販車の中では最も重い車重だったが、コーナーの取り回しが全くストレスを感じさせなかった。ホンダのVエンジンは壊れないしよく回ると聞いてはいたが、実際に息つくことやブレもなく、スロットルを開けた分だけドンッと加速した。Vツインではなかったし、並列と違って素直なぶん、おもしろみには欠けていた。でもVエンジンはハーレーを除いてはどれもそんなもんだ。ハーレーのVエンジンは全く別物だ。キャブからインジェクションに変わったとはいえ、焼きつきや重要箇所のボルトの緩み、可動部の激しい摩耗のリスクと引き換えに、あの独特の、獣の荒い鼻息みたいな三拍子を頑なに守っている。どう考えてもメーカーの発想ではない。だから巷で言われているように、ハーレーに性能を求めてはいけない。ハーレーにあるのは「味」だけだ。覚悟と金のないやつは乗れない。ホンダのVエンジンはそれとは対極にある。頑丈で繊細だ。そして間違いなく高性能だ。

 それまでカワサキだったから、この乗りやすさにはなにより驚いた。あっという間に虜になった。後に國學院大学に編入が決まったときにはバイクで上京した。
 その國學院大学の編入試験だが、同じ時期にトウキョウのいくつかの大学に電話して、学士編入の試験を行う予定があるか問い合わせた。今みたいに編入は一般的ではなかったし、それらに関するガイド本もほとんどなく、情報がなかったので、自分で調べる以外に手だてはなかった。あちこちの大学に電話して学士編入のことを聞いた。早稲田は実施予定がないと言った。成城はその時はまだ未定、成蹊と國學院は実施予定とのことだった。過去問の閲覧かコピーが可能か聞くと、成蹊は閲覧可、國學院は郵送してくれると言った。試験科目は専門(日本文学。成蹊は標準的な学科試験。國學院は論文)と英語(どちらもひたすら訳)と面接。
 それから河合塾福岡校の冬期講習に通った。高校のころの知識系の記憶を呼び覚ますためだ。漢文概説と古典文法の講座に出た。制服姿の高校生がほとんどの中、浪人生のふりをして通った。

 僕はナガセもバンドも博多の町も棄てる準備をしていたのだ。

(つづく)

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