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オープンGの、テレキャスター ─ラバーソール、リーヴァイス、それから赤DEP(1)

0 あんたに

 青春は、ラバーソールの靴擦れの痕(あと)。人生を一歩進むたびに、痛痒い。いつもは鎧のように堅い革靴に覆い隠されて、すっかり忘れ去られている。でも、一日の終わりに靴を脱いで靴下を脱いで、フッと気が抜けて油断したときに、うっかり見てしまうものさ。みっともなくて人には見せられないそんなガラクタ。

 そいつがたまに聞いてくる。

「おい小僧、うぬぼれてイキがって、自由だったおまえはいま、どこにいる?」

 老いぼれた小僧はせつなくなって、だから誰にだって泣きたい夜はあるのさ。あんたならわかるだろ? わからないやつとはつきあいたくないな。

1 ザ・確認バンド、そして赤DEP

 ナガセと初めて話したのは、高2の9月ごろだった。

 1980年当時、僕は福岡の男子校で、ひとクラス54名平均のマンモス校に通っていた。1年の時は普通のクラスで、2年に進級したとき特進文というクラスに入った。当時は当たり前の詰め込み教育で、先生たちは全員竹刀や、竹刀の一片をテーピングしてカスタマイズした棒を持っていた。何のためにかというと、もちろん「指導」のためだ。厳しい先生ばかりだった。なかでも生物のサコマ先生は最も恐ろしく、最もおもしろい授業で、大人気だった。レポート用紙数十枚(最低ノルマが30枚。箇条書きの問いが約50問あって、各問いについて徹底的に調べあげ、レポート用紙に書く)という地獄のような課題が必ず各学期末に課せられ、遅れた者、内容が否とされた者は、徹底した「指導」を受けた上で再提出させられた。再提出した者はみんな坊主頭になっていた。
 サコマ先生の絶大な人気はテレビでも紹介された。ちょうどそのころは世間ではローラー族やタケノコ族が一世を風靡し、歌謡番組に横浜銀蠅が出演し、中学校では校内暴力が吹き荒れ、教育の荒廃が朝から晩まで面白可笑しく論じられるような時代だった。そんな中、生徒に支持される若い教師像のようなかたちでサコマ先生がNHKでとりあげられた。取材班が僕らの教室で授業風景を撮影して、僕らはカチコチに緊張した。生徒指導も、今では考えられない形で為されることも多くあった。けれど僕の学校では真面目なやつも筋金入りのワルもみんな、サコマ先生を始めとした教師たちを大好きだった。授業がうまかったからとかスキルがあったからとかではない。単純に先生たちはとてもおもしろい人間ばかりだったのだ。おもしろい人のことは誰だって好きになる。

 ナガセとのつきあいは体育祭のクラスでの話し合いがきっかけだった。
 お昼の時間帯の余興で仮装行列があった。テーマは歴史、みんな何になりたいかを申し出るというときに、僕は迷わず忌野清志郎をやると言った。もちろん歴史とは無関係だ。即却下され桃太郎の犬になれと言われた。断固拒否し、議長や周りの連中と言い争った末に猿におちついた。なぜか猿なら妥協できた。その時ナガセは「おれ、スターリンの遠藤ミチロウばやるけん」と言って僕と同じように却下されたのだった。
 因みに、いつもつるんでいたハツムラは高村光雲作の老猿に似ているということで老猿をやることになったため、僕と若干かぶり、もめた挙げ句一週間ほど口をきかなくなり、ハナキは薬師寺吉祥天像、または鳥毛立女屏風美人像にそっくりだということで、コスチューム的に鳥毛立女屏風の美人像の方が好きだという本人の希望により、鳥毛立女屏風の美人像に扮することになり、これをクラスの仮装行列の目玉にしようということになった。ミチロウを却下されたナガセはというと、顔がトカゲに似ているということで、岸田劉生筆の麗子微笑に決定した。クラスで唯一人、歴史と無関係な扮装をみんなが許したのは、ソーイチローくんと呼んでいた友だちだった。
 ソーイチローくんは目と歯並びがあまりにも似ているということで、当時デビューしたてのアイドル伊藤つかさになることが許された。本人はかなり嫌がっていたが、せっかくみんなが許可した事案だということもあって、最終的には受け入れた。
 クラスの話し合いの後、ナガセの席に行って、「パンク、好いとっと?」と聞くと、「おう」と答えた。ナガセはポーカーフェイスで無表情なやつだったが、この時は笑って答えた。僕も笑って「俺も好いとう」と言った。

 翌日には二人とも透明下敷きにセックス・ピストルズの写真を挟んできた。それまでは僕の下敷きには、当時、一部の高校生にありがちだったジェームス・ディーンの絵はがきとペパーミント原宿のコブラのシールが挟まれてあり、ナガセの下敷きにはクリームソーダというショップのドクロのシールが挟まれていた。相談したわけではなく、偶然同じ日に、同じタイミングで「ちょ、見てんない(見てよ)」と言ってピストルズの切り抜きを見せあったので、そのときにはお互いに顔を見合わせて大笑いした。僕はピストルズのスコアブックから、ナガセは当時は純粋なバンド雑誌だった『宝島』から切り抜いていた。
 整髪料も今のように豊富ではなく、ワックスなんてなかった。髪の毛を逆立てるためにはジェルが必要だった。赤い色のDEPがスーパーハードで一番固めやすかった。赤DEPは自称パンクスの必需品だった。僕もそれを買って、近所の金物屋のおじさんにだまされて8500円のえらく高価なすきバサミまで買って、髪を自分で切り続けた。
「オサダ、お前の頭はなんかそりゃ? おう? 五右衛門のごたあ頭ばしてから」
と担任に「指導」されながらもなんとかその頭で学校に通った。

 比喩ではなく、朝から晩まで勉強させられた。朝7時30分から始まって、夜は7時に終わった。
 そんな毎日でも夏にはみんなで土曜の夕方から泊まりがけ(野宿だが)で海に遊びに行ったり、誰かの家に集合したりして遊んだ。
 夏休みの補習期間中に、日曜に海で過ごして陽焼けすると、学校では必ずどの先生からも「焼けとうねえ。こら。そがんヒマあるとか? おう?」などと言われて背中や肩を思いきり「指導」された。日焼け止めの存在すら知らなかった僕らは、シャツが擦れただけでもひりひりしていたのに、日焼け「指導」は電流を流されたようだった。
 一方で、制服については寛容だった。雑餉隈(ざっしょのくま)の商店街に、学ランの裏地にさまざまな美しい刺繍を施した制服が売っている店があると、傾斜メガネのサトウから教わり、ナガセと買いに行った。僕は青紫色の裏地に虎鷹が刺繍された中ラン(もちろんファスナー付きだ)とツータックのボンタン、ナガセは赤を基調にした大蛇の、当時はまだ珍しかった短ランをアルコールか何かで焼いて変色させた学ランと、これまた誰も履いていなかった、わずかにラメっぽい光沢が施された細身のズボンを買った。まあ、時代も時代で地方の片田舎なので、仕方のないことだ。
 後に、同じクラスだったマツイの結婚式の時、ヨシダがスピーチでこう言った。
「僕らは、高校時代には、ほとんど陽の光ば見たことはありましぇんでした。朝日が昇る前に学校に行き勉強ばさせられ、夕方日が沈んでから家に帰っとったからです。二度と、あのころには戻りたくありましぇん。ですが、あの三年間がなかったら、今の僕らはありましぇんっ、感謝しとります。こいつとはそのころに出会った仲間です。だけん、かけがえのなか友だちですっ。おい、マツイ」
と、ヨシダが呼んだときには、ヨシダも、マツイも、僕らも泣いていた。
「マツイ、おめでとう」
 男ばかりのひとテーブルだけ泣いているのを、周りの人たちは不思議に思っただろう。部活のようにかっこよくもなければ華やかでもない、ただの詰め込み教育を「指導」されながら受けたあの時の思いは周りの人たちにはわからない。僕らだけがわかっている。僕らにしかわからない。それは僕らだけの大切なガラクタだ。

 3年生になって文化祭でバンドを組もうという話になった。僕らのクラスは2、3年は持ち上がりで、担任も変わらなかった。担任のミヤケ先生は鼻の造作がゴリラそっくりで、放課後、時々ランダムに僕らの中の誰かを呼びつけ別室で徹底「指導」をしていた。どんなに強いやつでもみんな泣きながら教室に鞄を取りに戻り、何かを反省して帰宅していた。その「何か」は、反省している本人にもわからない謎のサムシングだった。いま思えばむちゃくちゃなことで不条理以外の何ものでのないことだが、たぶんあのとき大切だったことは反省することそのものだったのだろう。反省は具体的な痛みを伴うものだと身体で覚えた。まあ、鷲田清一を持ち出すまでもなく、身体感覚は精神や文化に直結しているわけで、体に刻み込む、体に教え込むといった、一見原始的で野蛮そうな行為もいまでは再評価され復権されていることではある。
 そんな身体論的「指導」に僕も呼ばれたことがあった。3年の春ごろだった。別室に入るなりいきなり「指導」され、床に崩れ落ちた後も続き、泣き出したところで手を差しだされた。恐る恐る先生の手を握った瞬間、ミヤケ先生は力強く僕の手を握りしめ、「男はこれた〜い!」とさわやかに笑って起こしてくれた。「指導」中のミヤケ先生の言葉は
「きしゃま(貴様)」
「こらっ」
「このっ」
「とぼけがっ」
と、最後の

「男はこれた〜い!」

だけだった。

 そのミヤケ先生の口癖は、「今が一番大事な時ぞ」と「確認しんしゃい」の2つだった。
「2年になったときからくさ、ずーっと言われて、一番大事な時がわからんようになったあ」と真面目な顔をして言っていたイイダの口癖は「なあ、いつが大事なときや? キサン(貴様)わかっとうとか?」だった。
 僕らは担任の口癖にちなんで、「確認バンド」というバンドを結成した。ギターがナガセ、ベースはツツミダ、ドラムがイケちゃんでボーカルが僕だ。
 文化祭に向けて練習を始めた。ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」、ストーンズの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」、RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」と「雨上がりの夜空に」を歌うことになった。僕は透明下敷きに「アナーキー・イン・ザ・UK」の歌詞を「アーイアーマッナンチクィストゥッ」とカタカナで書いたのを挟んで覚えた。もちろんイントロの「Right! Now……」の所も「ウウウウゥライッ ニア~ウ ハハハハハハハハ」と笑い声まで再現した。1曲だけ、デル・シャノンの「ランナウエイ」をツツミダがどうしても歌いたいと言い出し、この時僕はバックコーラスをやった。
 文化祭はうまくいったという満足感でいっぱいだったが、みんなで録音したものを聞いたとき、「ランナウエイ」のサビの「And wonder–wah-wah-wah-wah-wonder」というところで、僕が裏声でコーラスするところが「ニャーニャーニャーニャーニャン~ダー」に聞こえ、「Why, Why, Why, Why, Why,」とコーラスするところが「ホワォッ、ホワォッ、ホワォッ、ホワォッ、ホワァ~」にしか聞こえないと言われケンカになった。結成当初、確認バンドをずっとやっていこうとみんなで誓っていたのに、これで解散した。
 けれどナガセとはその後もバンドを続けようと話し、「モッズも東京進出したやろ。おれらもくさ、高校ば卒業したら東京になぐりこむじぇ」とバカなことを大まじめに話しあって練習を続けていた。

 結局、大学受験でナガセも僕も福岡の大学にそのまま進学した。僕は國學院大学の文学部出身だが、それは紆余曲折を経て福岡の大学を卒業した後、あらためて東京に出て編入したからだ。福岡の大学では商学部に通うことになった。ナガセは英文だった。

 高校の卒業式では、鬼そのものだったミヤケ先生が言葉をつまらせ泣いていた。それはとても感動的だったのだが、ただ、いまもってよくわからないことは、ミヤケ先生が泣きながら、「おし、お前らの卒業ば祝うて一曲歌うけん」と突然言いだし、「黒の舟歌」という歌を歌い出したことだ。歌詞は男と女の、しかもかなり大人な男と女の内容で、「卒業」「旅立ち」「希望」はおろか、「恋」みたいな要素さえかけらほどもないものだ。それまでもらい泣きして鼻をグスグス言わせていた何人かの友だちも泣きやみ、しんと静まりかえった教室の中でミヤケ先生の野太い歌声だけが響いていた。
 ワンコーラス歌いきった後、調子に乗ったのか、ミヤケ先生はツーコーラスめに突入した。「おまーえが十七、おれ十九~」と出だしを歌ったところで、突然歌がやんだ。ミヤケ先生は
「お? お?」
とうなりながら首をひねり、「おう、オサダ」と僕を呼んだ。「はい」と言うと、「次、歌詞、なんやったかね。歌ば歌うとろけん知っとうやろ」と言われた。たまたま僕は「黒の舟歌」や「赤色エレジー」、「上海帰りのリル」、「影を慕いて」なんかはかっこいいと思っていて歌詞を知っていたので「忘れもしない この河に です」と答えたら、「おお」と言って歌い出した。けれどまたその次のフレーズを思い出せなかったらしく「フーン フーン」というハミングになった。

 たぶん本当はみんな、もっと泣きたかったんだと思う。

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