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茶の湯の作法について

 「お茶は礼儀作法が厳しい」「覚えるのが大変」「せっかくの自由を奪われる」と言う言葉がしばしば聞こえる。声を大にして言いたい。それは大きな誤解である。
    自由や個性を尊重されてきた現代人たちには、特定の法則に縛られることは、非常に窮屈で退屈に感じられるのかもしれない。しかし、真実は逆である。作法を知れば知るほど、実は、自由は広がるのだ。しかも、あらゆる面において楽になる。一つ一つの行動に手間取ることもなくなり、効率よくその瞬間を生きることができる。姿勢や心が綺麗になりますよ、など言われるが、そんなことどころではない。どんな行為も後に名詞化されただけだ。言葉に惑わされてはいけない。それ以上の効果が所作の中には詰まっている。ここに、茶の湯の観点から、6つの利点にまとめ、わかりやすくお伝えしたい。

1、所作とは何か

 所作とは、一つの目的を複数人で円滑に達成するための約束ごとである。たった一人では所作は生まれない。あくまでも複数人で共通の果たすべき目的があるときに自然と形成され、それを後に定義化する。そうでなければ、効率性と機能性が著しく落とされることとなり、全員が被害を被ることとなる。
 茶の湯の場合、茶事という最大四時間の喫茶がある。茶事では、順次場所を移動しながら、「香煎」「キセル」「炭」「会席料理※」「濃茶」「薄茶」など様々な項目を滞りなく達成していく必要がある。多くの要素があり、その分、多くの工程があるため、各々がその時々において最適な動きができなければ、四時間と言えど、あっという間に時は過ぎ、時間内に終わることができなくなってしまう。茶事の場合、その進行が乱れると、炭で沸かす釜の湯の調整が取れなくなり、結果、亭主は美味しい茶を点てられず、客人もその美味しくない茶を飲まざるを得なくない最悪の事態となってしまうのである。
 その時に、潤滑油として登場するのが、「所作」である。亭主・客人共通の約束ごとをあらかじめ決めておくことで、余計な言葉や確認を極限まで削ぎ落とし、茶事を進めることができる。非常に優れた複数の機能が、所作には込められているのだ。

2、言葉を信じない、行動を約束する

 言語というのは便利なように見えて、誤解、誤認、誤謬、様々な弊害がある。同じ言葉であっても、個々人で認識が違うのだから、そこに細かな齟齬が生まれるのは必然なのかも知れない。ダメな上司は言葉だけでものを言い、結果、部下を惑わせ、失敗させてしまうのだ。皆様もご経験はないだろうか。
 しかし、行動は違う。行動は互いの共通項目として最も信頼できる。言葉での約束ではなく、行動の約束を形式化することによって、所作という盤石な行動様式を築くことができる。
 まさに阿吽の呼吸であり、その息遣いを整えるために、約束があり、所作があり、茶の湯の稽古があると言える。

3、行動の自動化

 約束ごとを認識し、その行為を繰り返すことで、いちいち次の行動を考えなくて済む。茶の湯において、その最もミニマムな動きが、点前である。点前は茶を点てるだけの動きだが、効率よく機能的に美味しい茶を客に出せるよう、たくさんの約束ごとがある。もちろん、はじめの頃は一つ一つの動きに迷いを生じるだろうが、何度も何度も稽古を重ねることで、身体が自動的に動くようになる。身体の自動化によって、客人は美味しい茶を喫することができるのだ。
 点前は茶を点てるために約束された動作だが、それが広がっていくと、茶事という四時間の喫茶においても全て自動化できるようになる。自動化できるとどのような得があるかと言えば、物事が効率よく進行する以外にも、身体を動かしながら他の多種多様な事柄を考えられるようになるのだ。
 要するに、所作を身につけることで、個人の思考は何倍にも広がり、それが集団化すると、一人では達成が困難な多くの事柄を同時に複数こなせるようになる。思考の多元化である。これが所作の一番の魅力であると思う。

4、信頼の構築

 所作を知っているということは、共通の約束をきちんと確認し合えているということ。そうなれば、もし亭主・客人の立場が敵対する者同士だったとしても、同じ場所で喫茶することが可能になる。これまで、国や集団が一つの旗の下に集まるために、仮想敵国を作り出すことが多くあったが、そのような外法を用いずとも、所作は平和的に共通の目的を持つことができる。
 であるからして、複雑で、かつ多岐にわたる所作を知れば知るほど、多くの楽しみを多くの人と平和的に分かち合える。非常によく考えられた人間の智慧である。しかし、物事にはやはり限度が必要で、茶の湯の場合、5〜6人で4時間内で行う喫茶を限度とし、それを茶事と呼んでいる。

5、境をまぎらかす

 茶の湯の目的の一つに、「境をまぎらかす」という言葉がある。佗び茶の祖として有名な村田珠光の『心の文』に現れる言葉だが、一座に集う者たちが違いを持ったまま一つの空間化するということを言っている(と私は思っている)。興味深いのは、境を「なくす」ではなく、「まぎらかす」と表現している部分である。茶の湯は、互いのあらゆる違いを受け入れる。
 所作という約束を持つことで「境をまぎらかす」という目的を容易に達成することができる。言語外のコミュニケーションをこれほどまでに純粋化させた文化は世界でも稀有ではなかろうか。

6、平等

 行動を様式化し、違いを受け入れた先には、平等が待っている。この世にあるあらあゆる差別、区別を茶の湯の所作によって解決する。皆が平等にただの一服を楽しめることができれば、それ以上のことはないと思う。

まとめ

 所作が衒学的なものとなったのは、教えている側も、教えられている側も、なぜその「契約的行為」をしなければならないかを、きちんと理解していないからだ。
 いつも思うが、茶といえば、茶碗を回すことをすぐに口に出すが、それは一体どんな理由や、どんな機能性があって行うことなのかまでを語る教授者は少ない。なぜ流派によって回転数や方向が違うのか。回さない流派もあるが、それはなぜか。茶事という一連の流れの中で、その行為は一体どんな意味を持つのか。重要であるなら、なぜ江戸時代の教本にはほとんどその記述がないのか。正面に口をつけない謙虚な心の発生はいつからか、など、あまりに思慮が足りない。このような生徒、弟子の疑問に心や気持ち以外の言葉で具体的に応えられないままでは、わだかまりがひたすら蓄積していくのみである。いい加減、抽象的、感情的表現を最初に持ち出して押し付けるのはやめよう。
 また、点前であっても、やたら自身の記憶力を試すかのように嬉々として覚える方々がいる。TPOに合わせるために多くの点前が作られたのに、その意味を理解せずに身につけていくのは、非常に残念に思う。独りよがりの点前は見苦しい。

 所作は、具体的意味性を知らなければ成立しない。世にある多くの契約と同じだ。ただ、いちいち約束時、または約束を履行する際にハンコを押したり、弁護人をつけたりせず、あくまでも命ある人間同士の関係性の中で行われることが望ましいと思っている。互いを尊重することで所作は初めて生まれ出づるのではないか。

 約束は相手がいることで、初めて成立する。所作によって、自己以外の、他者の存在を明確にできることは、とても大切なことであると思う。
 ぜひ、様々な約束を持てることができたら、と思う。

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