変わらない”タテ社会”を生き抜くために タテ社会の人間関係
導入 〜中根のタテ社会理論〜
中根千枝。東大初の女性教授、日本学士院初の女性会員、日本を代表する文化人類学者、そして何より”タテ社会”という言葉を50年以上前に発明した、偉大な知識人だ。
日本は、”場”に基づいて、”タテ型のつながり”を持つ社会であるという中根の分析は、半世紀以上経った現在でも、日本社会論の金字塔として、文字通り世界中で参照され続けている。実際、”日本文化論”のような講義を海外の大学で受講すれば、真っ先に参照されるのは今に至っても中根のタテ社会論である。
以下、中根の日本社会論をサマリしてみる。社会構造とは、社会に存在する個人や集団の行動や性質を一貫して説明することのできる基本原理のことである。日本の社会構造は、①”場”を要因として集団が組成されること、②場所に所属する年数などのタテ向きの序列に基づく力学が働くこと、の2つを特徴としている。
以下、①②を概括する。
①"場"に基づく集団組成
集団の2類型 〜”場”と”資格”〜
”場”を要因とする結合とは、集団の構成が文字通り”場”の共有に基礎付けられてる場合を指す。”場”は、具体的な場所であることも多いが、より抽象的に、何らかの”枠組み”に基づいて人間の集まりが分断されるイメージを持つと良い。例えば、学校や企業が良い例である。この場合、集団の構成員が”⚫︎⚫︎中学校の〜〜”であったり、”⚫︎⚫︎商事の〜〜”というようなアイデンティティを強く持つことになる。
対して、"資格”を要因とする結合とは、集団の構成が構成員に共通する何らかの要素に基礎付けられる場合を指す。資格は技能的なものに限定されず、集団の構成員が共有している何らかの性質、くらいに考えておくと良い。具体的には、”血縁”、”職能”、”カースト”のようなものを資格と呼ぶことができるだろう。この場合、集団の構成員は”⚫︎⚫︎職人の〜〜”であるとか、”⚫︎⚫︎一族の〜〜”のようなアイデンティティを強く持つことになる。
あらゆる社会は、両方の原理に基づき構成される集団を有するが、どちらかが必ず優勢になる。日本の場合は、”場”を要因とする結合が極めて強く働き、”資格”に基づく結合はほとんど見られない、という特徴がある。そのことを具体的な行動に基づいて分析すると以下のような事例を挙げることができる
”場”に基づく集団の特徴 〜精神的一体感〜
”場”に基づく集団は、”資格”に基づく集団と比較して集団間の同質性が限定されているため、結合力を高める方策が求められる。多くの場合、それは成員に対して、”場”に対する道徳的・精神的な一体感を持つことを要求したり、集団の枠外にいる者に対して感情的な対抗意識を持たせることで達成される。
例えば、家制度における”ヒトはヒト、ウチはウチ”的な閉塞性は、家族の一心同体感を高めることに大きな役割を果たしている。いわゆる”ママ友/パパ友”的な共同体は存在するが、それが家族を越えた繋がりになることは絶対にない。
このことは、厳格な身分制度を持つインドにおいて、集落内の”嫁”同士が強いネットワークを作り、時には家からのシェルターを相互に提供し合うような互恵関係を結ぶのとは対照的である。
また、企業が、日本では”場所”的な結合として独特に発展し、終身雇用制という擬似的な家族関係を作り出した点も興味深い。高度経済成長期の日本は、終身雇用のゆりかごの中で、従業員と企業が高度な精神的一体感を醸成することを通じて、高いパフォーマンスを発揮できたのである。
日本は、”企業別労働組合”が”職能別労働組合”よりも優位にあるが、この点も”場所”に対する所属を、”資格”によるヨコのつながりよりも重視する日本的な性格がよく現れている。(海外では”旋盤工”や”エンジニア”などの職能別労組が主流)
”場”に基づく集団の特徴 〜ヨソ者の敵視〜
”場”に基づく結合は、”資格”に基づく集団のようには境界を明瞭に定めることができない。”場”を定義する枠そのものが曖昧なため、常に集団への侵入や脱出などのリスクに晒されている。
また、そもそも本質的に民族的文化的な多様性に乏しい日本社会では、”場”に基づく集団が互いに極めて類似したものになる傾向が強く、その集団が絶対的なものであるという感覚を構成員に与えることが本来困難である。そのため、こうした集団は結合力を高めるために、常に「ヨソ者」を排除し、「ウチの者」の一体感を高める傾向がある。
例えば、日本人は職能的な繋がりを持つことが少ない。仮にそのようなつながりを持っていたとしても、それは”情報交換”であり決して自己の所属する企業集団への裏切りではないと言うことを強調し弁明する必要がある。これは、自分の所属する集団から「ヨソ者」として排除されないために必要な涙ぐましい努力だが、”場”による結合がヨコのつながりを困難にしているわかりやすい例である。
また、日本においては、複数集団への所属は、集団への帰属意識を低めるとして忌避される傾向がある。サブとして複数の集団への所属を持つことはむしろ奨励されるが、複数の集団を同様に重要なものとして扱うことは許されず、「⚫︎⚫︎と××のどっちが大事なんだ」といった精神的なコミットメントが要求されるのが常である。
本来的には、複数の集団に所属することは、自己の心理的な安全性を高めることや社会的なセーフティネットを持つことにつながるが、日本においてはそのような行動は控えるべきものとされ、常に一つの絶対的な集団に対して物理的にも精神的にもコミットメントしていることを表明するよう求められる。
このように、帰属の明示が常に要求される状況を指して、中根は日本を”単一社会”と名付けたのである。
②"タテ組織"に基づく序列構造
つながりの2類型 〜”タテ”と”ヨコ”〜
つながりには、何らかの序列の高低差の差異に基づく”タテ”と、同等の序列に位置するという同質性に基づく”ヨコ”の2つのパターンがある。”タテ”の例は親分/子分、先輩/後輩などの関係で、”ヨコ”の例は、共通の職能や趣味で繋がる勉強会やサークルなどの関係である。日本社会では、”場”の中で限定的に作用する”タテ”のつながりが強く作用し、”ヨコ”のつながりがほとんど見られないと言う特徴を持っている。
”タテ”組織の特徴 〜所属している期間に基づく序列〜
日本社会で”タテ”の序列として最も優先的に機能するのは、集団にどれだけ長い期間在籍しているか、いつから在籍しているか、という期間のパラメーターである。
例えば、日本社会を象徴する独特の概念に、”同期”があるが、これは”集団に所属し始めたタイミングが同一の構成員を、同一の序列に位置付ける”概念である。他の集団で高い序列にいた者でも、同期として並んだ場合には他の構成員と同等の序列に置かれる。こうした現象は、例えば学生のサークルや友達集団などの私的な集団のみならず、企業などの公的な集団にも共通して見られる現象である。
同期には、歳が上でも、能力が上でも、職位が上でも、”タメ口”を聞くことが許されるのは、日本社会においては能力や年齢と同様に、あるいはそれ以上に、その集団にどれだけの期間在籍していたかという期間のパラメータが重視されていることを表している。
この理由として、まず中根は、日本が伝統的に”能力平等主義”(=能力がないのは努力の問題で、本当は誰でもやればできるため、能力差は個人の本質的な序列として機能しない)であり、能力の高低に注目する習慣を持っていないと指摘する。その上で、組織秩序を作り出すために残っていたのが、所属している”期間”に基づく”タテ”序列だったのである。
ちなみに、能力主義は完全に無効化されているわけでなく、このタテ序列の中での”同期関係”内でのみ、限定的に作用するものとして存在する。同じ条件のもとで競争している構成員の間でのみ、椅子取りゲームの競争が生じるのである。
”タテ”組織の特徴 〜他の要素では覆らない序列の絶対性〜
”タテ”組織の力学は日常生活においては、”目上の人を立てる”行動として現れる。飲み会でどの席に座るべきか、誰の次に発言するべきか、誰の意見に同調するべきか、私たちはその場の序列を意識せずには決定することはできない。
中国やインドも同様に長幼の序やカーストといった強い序列構造を持つが、思考や意見までを序列に恭順させるよう求めるのは、日本に特有のタテ組織のあり方だと中根は指摘している。
このような序列に対する絶対的な帰依の意識は、日本において目的を達成するための健全な意見交換や議論が極めて難しい理由を物語っている。”目上の人”の意見に反論することは、序列を撹乱し組織の安定を乱す行為と受け止められ、直ちに無効化されてしまうのである。
これは、振る舞いにおいては多くの統制を人々に課すインドのカースト制のもとでも、カーストの規定の外にある範囲で堂々と自分の意見を表明することが問題とされないこととは、極めて対照的である。理屈的な正しさや道理よりも、序列に基づく秩序や安寧を重視するのが日本的なタテ社会の大きさ特徴である。
”タテ”組織の特徴 〜序列の上位へ向かう熾烈な競争〜
日本型のタテ組織においては、下位に留まることは恥ずべきこととされているため、上位に向かうために熾烈な競争が繰り広げられることになる。日本社会は伝統的にモビリティが高く、現代社会においては良い大学に行くことを通じた階級上昇を達成できる。
能力平等主義的な文化を持つ日本では、序列の下位にとどまることの惨めさは、他の国家に類を見ないほど大きい。ヨコのつながりを重視する文化においては、序列下位にとどまることは少しも恥ずかしくない一方で、日本型タテ組織において下にとどまることは、すなわち敗北を意味する。このことが過当な競争意識を煽るのである。
③変わらない”タテ社会”を生き抜くために
タテ社会の見立ては、出版から55年以上経った今でも少しも色褪せていない。それでは、タテ社会を生きぬくために、私たちは一体どうすれば良いのか。
一つは、意識的にヨコのつながりをつくることであろう。タテ社会の序列に全てを支配されず、自分の資格に基づく集団への所属を複数持っておくこと。それによって、序列上位に向かう椅子取りゲームに、自分の全てを委ねないことだ。自分のセーフティネットを何重にも張り巡らせれば、タテ社会における序列とか立ち位置に一喜一憂しないで済む。
さらに言えば、そうしたバックアップをもとに、タテ社会の秩序に挑戦し続けるべきだ。集団をより良いものにするためには、まず論理的な議論を行う組織風土を作る必要がある。そのためには、横のつながりで蓄えた経験や知識をもとに、単一的なタテ社会のプロトコルに対して執拗にエラーを吐き続けることが重要である。そうした行動が当たり前になるまで、何度も何度も。
もちろん、感情的な心地よさから脱出することの心理的なコストは尋常ではない。私たちは皆、タテ社会の一部なのだから。しかし、そのストレスに身を晒しながら、強靭なタテの序列に礫を投げ続けること。
私たちが実践できるのは、根気強く大きな秩序に挑戦し続けることのように思う。
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