見出し画像

sosoの素(17)

心と身体と頭のこと 2

僕は右手首が悲鳴をあげたことで自分の身体には限りがあることにやっと気づけた。きっとそれまでも気づくチャンスや言葉はたくさんやってきてたと思うけど元気で違和感のないうちは何歳になっても心に響かないんだと思うので、この話も何度読んでもそうなんだーとしか思えない人もたくさんいるだろうしそれはそれである意味幸せなことだと思う。
10-20代の時も身体が痛くなることはあった。それには原因があって、足を捻ったり打撲だったり変な方向に伸びてしまったり骨折だったり。あとは同じ姿勢を続けてて腰が痛くなることもあったけど、それらは何となく思い当たる節があるもの。原因があるから病院に行ったり、安静にしていたり、自然治癒力で回復していくものがほとんどで痛いところを使わないように身体は休ませれば治る経験をしてきましたよね、僕たちは。
それに比べ中年期に入り(僕なんかは入口早々で)疲れが抜けにくく、代謝も悪くなり原因不明であちこちが痛くなる。きっとこのままもっと年を重ねるともっとつらいことになると思うとゾッとしちゃう。
これらすべてをひっくるめて「老化」と名付け嫌だ嫌だと思いながらも回復してこない自分の身体に諦め気分だった。
きっと生まれてから20代くらいまでは治癒力ってことに関しては少々のことではビクともしないボーナスタイムだったのかなと考えるようになり、この先治癒力は減ってく一方でそれはもう二度と自分にはやってこない。そう考えるとなんだか人生の終わりが見え始めたようで悲しい気持ちにもなりなんだかやるせなくなった。

手首痛くなり始めたころ、ある接骨院に行った。そこで電気を当てて少しマッサージをしながら筋肉が硬直しててこれを解きほぐさないといけないけど硬くなりすぎてるから手でマッサージしてるだけでは無理だからもっと固い木の棒で激痛になるけど無理矢理にでもやならいと治らないから!と、少し見下したような雰囲気であなたは知らないだろうけどって具合で優越感に浸って自分の理論を展開して雄弁に語られた。
そうなの?と思った反面、そんな乱暴で優しさのない感覚でこんなに痛んでる身体が治るのかな?と帰り道にモヤモヤしながら考えていたらなんだか泣けてきた。そんな感覚で僕の身体に関わらないで欲しいと。

手首の痛さを抱えながらの仕事は捗らない。
一番使う部分を酷使してきて痛めてるのだから何をするにも使うのでその都度痛い。とにかく右手首から脳まで一気に電流が流れるように痛いのです。それはトラウマ状態になって動き方が痛みが走らないように、手首に負荷がかからないように庇うようにしか動けなくなった。後々気づいたけど、自分では普通の姿勢だと思ってた状態がまるで骨折をして三角巾で腕を釣って身体に沿うようにいるような状態で内側に丸くなり、真っ直ぐ腕をだらーんとさせることも出来ていなかった。どう見てもおかしいですよね。でもきっとその状態が一番痛みが走りにくい形だったんだと思う。
そんな感じだから健康な状態ならなんてことない作業も大いに時間がかかるし、痛みが走らないかなー、走らないでよーと祈りながら作業をしていたからストレスもすごかった。
仕事が忙しくなり、自分が働けば働くほど稼げる。やっとそんな局面に自分の仕事がたどり着けた。今頑張らなきゃ。焦る気持ちとは裏腹に、いつもより全然動かない身体では全然捗らない。捗らないから少しでも多く働かないとと身体をまた酷使する。もっとしっかり休めば治るのかもとも思うけど、この仕事を逃したくないし頑張り時なんだと頭が言ってるけど動かせれない身体。痛みで動かない身体を僕の頭が否定して虐待をするかのように。
そしてどんどんストレスだけが募り、身体も不自由、気分もどんどん落ちて行った。

このころの願いはただ一つ、痛みがない身体になりたい。普通に戻りたい、それだけだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?