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sosoの素(64)

いい加減

ある時にたわいもない会話でどんな人になりたいですか?と聞かれ「ちびまる子ちゃんのお父さんのヒロシ」と答えたことがある。
あの適当でいい加減でバツが悪くなったら「オラ知らねー」と言ってトンズラこける無責任な感じがなんとも羨ましく思える。きっと振り回される家族はたまったもんじゃないだろうけど。

僕自身結構きちんとしないと嫌なタチではある。
なんとなくのノリや雰囲気で突っ走ることで周りが後で困るようなことがあると申し訳なく思うし、いろいろアラが見えると整えたくなるから、まるちゃんのお父さんのように適当でいい加減でトンズラこける人にはなれなさそうだからちょっと憧れるのかもしれない。無い物ねだりってやつ。

色んな人と話してると結構きちんとしていたい人が多いなと思う。類は友を呼ぶでたまたまかもしれないけど、真面目で一生懸命の人が多い。
それで一生懸命過ぎて疲れてる人も多くて、もう少し手を抜いたらいいのにと良く思うけど、一生懸命にやってると手を抜くことができないこともよくわかる。

僕はイベントや展示を行うにつれて完璧を求めないようになっていった。初めの頃は考えれるだけ様々な状況を想定してそれら全てに対応できなければと肩に力が入っていて、そんな状態だから関わる人にも同じような心掛けを求めてしまってギクシャクしたりもした。徐々に力の抜き方がわかってきて、結果オーライになればそれでいいし、結果オーライに進むような進ませ方も身についてきた。

そんな時によく思っていたのは、結局自分で自分のことを縛り付けて来てたんだということ。ここまでは僕がやらないと鼻息荒く準備していて他のことも抱え込みいっぱいいっぱいになってピリピリして楽しくなってもらうためのことなのに緊張感あるものになってしまってた。それがちょっと手伝ってもらえます?と声をかけたり困ってることを相談すると思いがけずにたくさんの協力を得れたり、自分の想像よりも良い状態になったりすることが多く、周りに頼ると思いもよらない発見があるんだと深く納得したのです。

頑張ること、一生懸命やることは美しく尊く感じやすい。それはもしかしたら日本ぽい美徳なのかもしれないけど、ぼろぼろになりながら頑張ってる誰かの犠牲の上に自分の楽チンがあるのだとしたらそれはあまり嬉しくない。
ボロボロになりながら頑張ることが嬉しくて仕方がない人はそれでいいけど、くたくたでお風呂に入りたくもないくらい疲れたお母さんは不健全でも怠け者だと思われてもいいから外食したりピザ取ったりとにかく手を抜くべきだと思う。
思い返すと僕も母親が疲れて今日は買って来たコロッケだったり、カップラーメンだった時、テンションが上がって嬉しかった。そんな僕の気持ちとは裏腹にこんなご飯でごめんねとも言っていたような気がするけど、子供の僕は本当に嬉しかった。

毎日頑張ってるから手抜きもご馳走になる。
完璧を求めないと自分の想像よりも良いものに出会える。
自分で自分を「ちゃんとしなきゃ」と呪いの呪文をかけずに「オラ知らね」とトンズラこくのももしかしたら生活のよいアクセントになるのかもしれないね。

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