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【ためし読み】小津夜景著『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』/⒉いつかたこぶねになる日

2020年7月に創業したばかりの出版社、素粒社です。素粒社のはじめての本となる、小津夜景著『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』が刊行されました。フランス、ニース在住の俳人・小津夜景さんがつづる漢詩のある日々の暮らしーー杜甫や李賀、白居易といった古典はもちろんのこと、新井白石のそばの詩や夏目漱石の菜の花の詩、幸徳秋水の獄中詩といった日本の漢詩人たちの作品も多めに入っていて、中国近代の詩人である王国維や徐志摩も出てきます。本記事では『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』の一部をためし読みとして公開しています。


 いつかたこぶねになる日


 沖をながめながら、タコについて考えている。

 午前の海はがらんとしている。岩場に釣り竿を立て、折りたたみ椅子にのんびり腰かけている老人と、その横でぶらぶらしている少年がいるくらいだ。なんだかあっけないな。今日は祝日だから、もっとたくさん人がいるかと思ったのに。

 ゆうべからタコのことが頭から離れない。タコの動画をまとめて観たせいだ。タコはかわいい。しかも非凡だ。さらには孤独を愛するライフスタイルをつらぬいてもいる。タコは巣穴でひとり暮らしをし、毎日ひとり気ままにあそびにいく。道具を使って巣穴を自分らしく飾りつける。椰子の実をカプセルハウスとしてたずさえるタコもいる。

 そういえば、たこぶねという種類のタコは、地中海の宮殿のような貝殻を住まいにしていた。アン・モロー・リンドバーグ『海からの贈物』(吉田健一訳)にはこんなふうに書かれている。

「浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結び付いていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める。私はこのたこぶねのそういう仮の住居を専門家の蒐集でしか見たことがないが、その生き方が提供する影像に非常な魅力を感じる。半透明で、ギリシャの柱のように美しい溝が幾筋か付いているこの白い貝は、昔の人たちが乗った舟も同様に軽くて、未知の海に向っていつでも出帆することができる」

 わたしの母は「わたしは国禁を犯してでも、あなたを外に送り出すから。早ければ15歳で」と幼い娘に向かって言うような人だったので、わたしは小学生のころにはすでに、自分は15歳で脱藩するのだという覚悟をもっていた。これっぽっちもじょうだんでなく。「未知の世界に漕ぎ出せば、そりゃあ死ぬかもしれないけれど、でも自由を知ることができるのよ、あなたが死んでもおかあさんはがまんするから、遠慮なく好きなところに行きなさい」と言われたことも一度や二度ではない。

 こんな言葉を娘に向かって言うのは、それだけ当時が女性にとってむずかしい時代だった証拠だ。きっと母自身が好きなところへ行きたかったのだろう。

 知り合いに、母国の大学を卒業したあとニューヨークに留学し、いまは画家をやっているドイツ人女性がいる。彼女はわたしよりずっと年上で、ニューヨークには大西洋を船でわたった。フランスのル・アーヴルに両親と汽車で入り、ニューヨーク行き旅客船に乗り込んだ彼女は、波止場にたたずむ両親を甲板から見つめながら、彼らとふたたび会うことはないかもしれないと思うと涙が止まらなかったそうで、それを聞いたときは失礼ながら笑ってしまったのだけれど、もちろんみじんも笑うところのない話である。おそらく「船で海をわたる」という状況に、ゆりかごとしての祖国から肉体をむりやり引きはがす、通過儀礼的な痛みがあったに違いないのだから。わたしもその痛みを知っている。しかも痛みがぶりかえすことのないよう、いまもって胸に鍵をかけたままだ。

 さらにむかしにさかのぼると、女子教育には家長たる父親の意向が大きく反映していた。またその内実はあくまで自己修身としてのものにとどまり、ひろい世界へ出てゆくことを見すえた父親はきわめてまれだった。

 ただしなんにでも例外はある。たとえば江戸時代を生きた原采蘋(はら・さいひん)は男装・帯刀で各地を旅したといわれているが、どうしてそのような人生を送ったのかというと、そこには父である古処(こしょ)の思惑があった。

 原古処は古文辞学を修めた、秋月藩の藩校の教授だった人物だ。それが寛政異学の禁をきっかけにして、朱子学以外を講じる学者の立場がしだいに危うくなっていったのに加え、1810(文化7)年から1812(文化9)年にかけて起こった秋月藩の政変の結果、采蘋が15歳のときに職をうしない、儒者の資格も剝奪されてしまう。そこで古処はどうしたかというと、家名をここでつぶすわけにはいかないとふるいたち、二人の息子たちをさしおいて、わが子の中でもっとも見込みのあった采蘋に、原家再興のために江戸に上って日本一の漢詩人になるよう命じたのである。当時の女性の社会的地位を考えれば気の狂ったような決断だ。

 九州一円での7年にわたる修行を終えた采蘋が、ふるさとを旅立つ日の心境を書いた詩が残っている。

 乙酉一月二十三日、郷を発つ  原采蘋

 夜あけに起き 父母に礼をして
 新年 郷里を出発する
 門の前では手ずから植えた柳が
 ひときわ別れを惜しんでゆれる
 祖先に供物をささげて長寿を祈る
 父と母が元気でありますように
 旅する私も無事でありますように
 ぐっと干す 鯨にまたがって盃(さかずき)を
 ぐっと干す 鯨にまたがって盃を
 この旅への気魂がみなぎってくる
 とはいえ 私は二十八
 孔明が南陽を出た歳を思うと愧じ入るのだ

 乙酉正月廿三日、発郷

 夙起拝高堂
 新年出故郷
 門前手栽柳
 殊繫離情長
 朝献后天寿
 使我二尊昌
 行人亦安穏
 一飲騎鯨觴
 一飲騎鯨觴
 此行気色揚
 唯我二十八
 愧亮出南陽

 これからの旅は身ひとつなのだ、との覚悟を感じさせる飾り気のない内容が、この詩にふつふつとした生命力をあたえている。どんな困難にも立ち向かう勇気をもって、諸葛亮とおのれとを比べる大胆さにもほれぼれしてしまう。ちなみに諸葛亮が「三顧の礼」をつくした劉備の願いに応えて南陽を出たのは27歳。惜しくもわずか1歳の遅れだ。

 「高堂」は両親のこと。「柳」は別離をあらわすモチーフ。「一飲騎鯨觴」は采蘋の敬愛する李白が「海上騎鯨客」と自称したことをよりどころに、未知の海原を臆せずわたってゆく彼女自身を描いている。同じ言葉を2回唱えるようすはみずからに言い聞かせるふうでもあり、傷つきやすい誇りに満ちた、はじまったばかりの人生のまぶしさ--たとえその生涯を放浪の末にとじることになろうとも--を感じさせてやまない。

 『海からの贈物』は、アン・モロー・リンドバーグがいっとき家庭を離れて島の家を借り、浜辺で拾った貝殻を材料に、夜な夜な思いめぐらしたことをつづった随筆集で、各章には「浜辺」「ほら貝」「つめた貝」「日の出貝」「牡蠣」「たこぶね」「幾つかの貝」「浜辺を振返って」と題がついている。簡素の美しさを告げる「ほら貝」、孤独のたいせつさを教える「つめた貝」、結婚当初のつかのまの完璧な自足を思わせる「日の出貝」、そのあとの長い涵養の時間を手ほどきする「牡蠣」、そして涵養の果てに殻を捨て去って、ふたたび身ひとつで海へと泳ぎだす「たこぶね」。こうした貝からあたえられるイメージを書き連ねることによって、女性が自由に生きるためにはなにが必要なのか、その暮らし方をアンは見つめ直すのだ。

 時の年輪がつくりあげた美しい殻を惜しげもなく脱ぎ捨て、人生の後半をたこぶねのように、さらなる未知の世界へ泳ぎだしたいという願い。一介のタコとして生き直したいという願い。この美しい願いが、しかし叶えるにはほんの少しむずかしいことをいまのわたしはよく知っている。

 ふいに潮の香り。コルシカ行きの黄色い船が、ゆっくりと沖を通りすぎる。アルミ製のクーラーバッグに、きらきらした鯛を投げ入れた少年が、老人に向かって歓喜の声を上げた。


小津夜景(おづ やけい) 1973年北海道生まれ。俳人。2013年「出アバラヤ記」で攝津幸彦賞準賞。2017年『フラワーズ・カンフー』(2016年、ふらんす堂)で田中裕明賞。2018年『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。ブログ「小津夜景日記*フラワーズ・カンフー」



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