【ためし読み】小津夜景著『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』/⒌はじめに傷があった
2020年7月に創業したばかりの出版社、素粒社です。素粒社のはじめての本となる、小津夜景著『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』が刊行されました。フランス、ニース在住の俳人・小津夜景さんがつづる漢詩のある日々の暮らしーー杜甫や李賀、白居易といった古典はもちろんのこと、新井白石のそばの詩や夏目漱石の菜の花の詩、幸徳秋水の獄中詩といった日本の漢詩人たちの作品も多めに入っていて、中国近代の詩人である王国維や徐志摩も出てきます。本記事では『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』の一部をためし読みとして公開しています。
はじめに傷があった
長いこと使っているステンレス製の鍋の底をこがした。
スチールのたわしでこすってみる。黒ずみが少しとれた。ついでに鍋の内側もこする。しゃらしゃらしゃらしゃら。いったん流し、両手で目の高さにかかげて検分すると、年季の入ったおびただしい傷がきらきらと輝いている。
水が沸騰するとき、はじめの気泡は鍋の傷から生まれる。逆からいうと、鍋に傷がないとき、水は100度になっても沸騰しない。これはむかし、会話の流れで夫が教えてくれたことだ。そのころわたしたちは、ピレネー山脈からさほど遠くない町に住み、夫は無重力飛行機に乗りながら、無重力下における沸騰現象の研究をしていたのだった。
「じゃあね、もしも傷のない、完璧なお鍋がこの世に存在したとして、一番はじめのたったひとつぶのあぶくは、いったいいつ、どうやって生まれたらいいの?」
わたしが疑問をぶつけると、たしか夫はこんなふうに答えた。
「その場合、一番はじめの気泡は、水中の水の分子の密度が低いところが偶然生じたとき、その穴から生まれるんだ」
「分子の密度が低いところって、つまりどういうところ?」
「分子と分子とが離れているところ」
こすっているうちに、鍋はみちがえるほどぴかぴかになった。水ですすぎ、なんとなく水をはり、コンロにかけて火をつける。サーカスの宣伝車が窓の下にやってきて、台所から死角になった道をにぎわしている。ボンジュール、本日のギニョールは14時上演です、みんなあそびに来てね。その呼び込みに反応するかのように、あえかなゆらぎが鍋の底にきざした。
「ちなみに、傷のない完璧なうつわのつくり方というのもちゃんとあって」
「うそ」
「ほんとだよ」
「うそだよ。完璧がこの世にあるわけないじゃん」
「まあまあ。つくり方はね、まず水を長時間わかしつづけるんだ。で、つぎにそれをそのまま静かに冷ます。そうすると傷の中に隠れていた空気がすっかり抜け、そこに水がぴったりと浸みこんで、これでできあがり」
あ。くる。そう思った瞬間、気泡が鍋の底から手品みたいにあらわれた。そしてゆらりと底からはがれ、湯の表面ではじけた。わたしはオーブンの把手に吊るしてあった白いワッフル地のふきんをつかみ、煮えたぎる湯にそっとかぶせて箸で押し沈めた。
それにしても、傷のない完璧なうつわがこの世に存在したとは。しかもわたしのこんな近くに。傷といえば、アルチュール・ランボーに「季節が流れる、城寨が見える、無疵な魂なぞ何処にあらう?」という詩があったんじゃなかったっけ。あの詩、なんてタイトルなのかしら。
コンロのそばを離れ、居間に入ると、わたしはランボーの詩集があるかもしれない本棚の前に立った。ところが本棚の硝子戸をひらいたときにはランボーのことはすっかり頭から抜けていて、手がつかんでいたのは白居易の詩集である。きっとベランダの窓に、イージージェットの旅客機がとんでゆくのが映っていたせいだ。
旅客機はオレンジ色のしっぽをぴんと立て、白く細長いひとすじの航跡を青空に残して去った。ルーチョ・フォンタナの《空間概念》じみた、ゆるやかな弧を描くそれは、美しい傷にも、はたまた地上へ向けた伝言にもみえた。
まぼろしとむきあう 白居易
このよにみえる ものはみな
すべてほろびが みなもとだ
からっぽさえも とどまらぬ
たとえこのめを そむけても
うれしいことも うつろえば
かなしいものに なるだろう
くるしいことも いつのひか
うつろなかげと かすだろう
おれのめだまも だんだんと
かすみはじめた うつしよの
かぜにらんぷが あおられて
ひかりがきえて ゆくように
もののゆくえを とうことに
みきりをつけて ながめれば
そらにはとりの とびさった
ただひとすじの あとがある
観幻
有起皆因滅
無暌不暫同
従歓終作感
転苦又成空
次第花生眼
須臾燭過風
更無尋覓処
鳥跡印空中
「観」は瞑想ないし内省すること。「花生眼」は目のかすむさま。老いに加え、このころの白居易は眼病を患っていた。「須臾」はまもなく。「鳥跡」という表現は、現存する最古の仏典『法句経』にみえる「空、無相、解脱に遊ぶときは、其人の行跡は尋ぬべきこと難し、猶ほ虚空に於ける鳥の跡の如し」(荻原雲来訳)という表現に由来する。
鳥が空をとんだところでその跡が宙に残らないことを知らない者はいない。だからこそ空をゆく鳥は、古来よりこの世への執着をきれいに断った解脱のシンボルだった。それにならい白居易も、どうせこの世は無常なのだ、意味にこだわるのはむなしいことだ、しょせんなにもかもいっときのまぼろしじゃないかと語る。と、見せかけて実際は、さいごのさいごで仰いだ大空に「とりのとびさったただひとすじのあと」をたしかめるのである。この手のひら返しのすさまじさよ。
ないものをあると語り出すことによって、はじめてこの世界はひとつの像として立ち上がる。「はじめに言葉があった」とはそういう意味だ。つまり、そこになにもないと実は知っていながらその存在を言葉のちからによって信じるのであって、それはちょうどイデアを信じるのと同じふるまいだといえる。きっと白居易は大空を超然とゆく鳥を見上げては、その光景の完璧な空虚にあらがい、ひとすじの傷を思い描いたのに違いない。真理を知りつつ、誤謬を求めたのに違いない。だってそうしないと、生きているのがさみしすぎるから。あるいは詩を書くことも。詩とは誤謬の創(きず)である。創をつくる。そのとき世界はあらわれるだろう。逆から言う。創をつくることでしか、世界はあらわれないだろう。創造とはつまりそういうことだ。
わたしは台所にもどると、鍋からふきんを引き上げ、ぎゅっとしぼって流し台の上に干した。それから、コルシカ島の炭酸水をデュラレックスの青いピカルディにそそぎ、ベランダにある丸いテーブルの上においた。
青いピカルディにそそいだ炭酸水はしゅわしゅわとして、神経の疲れをよくほぐしてくれる。わたしはテーブルに辞書とノートをひろげて書きものをする。炭酸水の効果はすごい。すいすい書きものがはかどる。ふいに、そうだわ、あのランボーの詩は「幸福」というタイトルなのだった、と思い出す。ベランダの上には旅客機が、休日のバスくらいののんびりしたテンポでとんできて、青い空にひとすじの雲を描いては音もなく去ってゆく。
小津夜景(おづ やけい) 1973年北海道生まれ。俳人。2013年「出アバラヤ記」で攝津幸彦賞準賞。2017年『フラワーズ・カンフー』(2016年、ふらんす堂)で田中裕明賞。2018年『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。ブログ「小津夜景日記*フラワーズ・カンフー」
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