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0より1知っているのは大事だけど人については一概に言えない 5.21

経験はだいじ。

それが、型、テンプレートになって新たなことに対する見方を養うことになる。要領をとらえやすくしてくれる。

0と1 事実があるかないか。ささいなことで生まれる大きな違い。0と1でできている社会ならひっくり返るくらい。

戸惑ってたことでも一歩、ただそれだけで少しは分かることになる。それだけで違う。

知らない世界のこと、少しでも知っていると感覚が変わる。

例えば海外旅行。今年生まれて初めて行き、最初は未知なことに対して不安ばかりだったけど、今は今まで経験しなかったのを悔やむくらい。少しは要領を得たので次も絶対楽しいはず。

働くということ。バイトを色々とやってきたのでその都度「あーここで働くとこういう人がいてこんな感じなんだな」とか「自分はこれが好きだな」とか色々試せてきたけど、ろくにインターン経験がなかった私は毎日出勤することから不慣れだった(途中から在宅になったから尚更)。そうしたなかでも給料を得てからじわじわと社会人か‥と実感している。

本についても、卒論でとある古典作品を通読し書いたから、他の作品を掘り下げようと思ったときも、参考文献、論文の読み方とか読み取りの切り口とか、ある程度はわかるようになった。作品を研究するのは何より読み込むことが必須で、多少は読む体力もついた。

人付き合いについても、たしかに男はこう女はこう、この年代の人はー、この生まれの人はー、この見た目の人はーこの専門、この職業の人はーと大まかに分けて、ある程度の距離の取り方は推測できる。

ただ人については、型よりも、目の前にいるありのままのその人としっかりと向き合うことを忘れてはいけない。

人以外でもどのことについても、こだわればこだわるほど違うことは確かだけど偏見や過去の歪んだ物差しで見てしまいそうなのはやっぱりだと思う。
色々な人に会えば会うほど新たな価値観、その人なりの生き方に触れ学ばされる。

どれだけ似たような人でも、絶対に違う。こういうような人だろうなって少しの関わりや他の経験から邪推するのはもったいない。
やっぱりこういう人だよね〜ってカテゴライズして笑うんじゃなくて、少しでも違うところを見つけることがその人の良さを見つけることになるし関わりやすさも増す。



過去の経験に縛られずに、向き合う。

絶対に違う。目の前にいる人は。そして、向き合おうとしている私たち自身も。

ある女の子の話

大学時代に、特別支援学校での短期実習をした。わたしは今までの身近にいる知的障がいを持つ子と関わった経験から、ある程度こういうことをする、こうやって関わると言いだろうという予測があった。それと同時に、うまく言葉で通じることのできないもどかしさも味わっていて、今回もそうなんだろうなーと思っていた。
でも実際は全く違った。
ある女の子は、わたしに〇〇って何ー?とひたすら聞いてきて(かなり流暢)、何を言っても新たにそれを聞いてきて、とても戸惑った。でもその都度答え続けた。その年にしては意外なほどインターネットを使いこなし、びっくりするような絵を見せてきたときも、機嫌を悪くしたときも、とにかく答え続けた。いっしょに頷いたり、笑ったり、いたずらに対して叱ったり。だけど一度も目は合わなかった。ずっとこれでいいのかな?言葉として伝えようとしても、逆にあちらがどれだけ流暢に話していてもどうも分かり合えていないなと思った。言葉を介すことはできているのに、ずっとすれ違っている感覚だった。


そうしていたらあっという間に最終日になって、じゃあね、ばいばいと声をかけた。
そのとき、こちらを向いて、手を振り返してくれた。

その子は、どことなく寂しそうな目をしていた。

分からない、わたしが名残惜しかったからそう見えたのかもしれない。でも、いつも突拍子で激しく、何か別の世界を見ているようにしか思えなかったその子が、初めてゆっくりとした瞬間が、目が、呼吸が合ったときが、あった。
なんだかそれだけで十分だった。


ふと思い出した3年くらい前のこと。
少しだけ、心のどこかにあったわだかまりが溶けた気がした。もっと自分を許そう、もっと優しくなりたいと思った。




今日も一日おつかれ様でした。明日もあなたにとって良い日になりますように。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。





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