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おばあちゃんといっしょ。 その2

毎日のように ”決まりごと” を厳しくしつけられた。

『家族の誰かが出かけてすぐに掃除(掃き掃除)をしてはいけない』=これはなんとなく今でもわかる。家の中をハタキとホウキで掃除していた頃だ。家の中の掃き掃除では、主に玄関や勝手口の土間に向かってゴミを掃き出す。そのあと、外用のホウキに持ち替え土間のゴミをチリトリで集めた。ホウキで玄関に向かって掃き出す動きが、「戻ってくるな」という動きにも感じられるからだ。家族が無事に帰ってくることを願ってのものだ。

『洗濯物を物干し竿に通した同じ方向から出すこと。絶対に反対から出してはいけない』=私がやっと洗濯物干しを手伝うようになった頃は、今のように洗濯ばさみやハンガーを多用せず、シャツやブラウスなどは、竿に袖の部分を通して干していた。(ひょっとするとうちだけだったかも)場所を取る非効率な干し方といえる。これは、亡くなった人の洗濯物を物干し竿の反対側から出すという習慣からだとおばあちゃんは教えてくれた。亡くなった人の洗濯物と同じ扱いにしてはいけないということらしい。しかし、どのようなタイミングで亡くなった人の服を洗濯していたのだろうか。

『新しい履物は朝おろさなければいけない』=その日の午後から初めて履くにしても、朝のうちに玄関に置いておく。それが決まりだった。この決まりごとについては母も気にしていて、どのような状態だったか忘れたが、靴屋で新しい靴を買い、その場で履き替えるのがすでに午後だったことから、店員さんに頼んで靴底の裏面をマジックで汚してもらった覚えがある。きっと、ちょっと前の誰でも知る慣習で、暮らしの中で”朝からはじめる”ということを大切にしていたのだろう。なんとなく、わかる。わかるので、今でも午後から新しい靴をおろす時は、実はこっそり靴の裏をペンで汚している。

『炊きたてのご飯の最初の一膳は、家長である父でなければならない』=家長というものを重んじていたおばあちゃん。本来なら、まだ元気だったおじいちゃんが家長だと思うのだが、すでに現役を引退していたからか、おじいちゃんと仲が悪かったからか、父を大変可愛がっていたからか、その全てが理由だったように思うが、我が家の家長は私がもの心ついた時から父だった。しかし、父が帰宅してご飯を食べる時間は遅く、しかもまちまちだ。母も今でいう正社員で働いていたことから、すでに当時から我が家では家族全員で食卓を囲むのは盆と正月だけだった。だから、私と弟が早い時間に夕食を食べる時に、炊きたてのご飯をまず仏壇に供え、次に一口分だけを父の茶碗によそっておいた。父は毎食、茶碗の底のちょっと冷めたご飯を食べていたはずだ。

『水の中にお湯を入れてはいけない』=これについては、とても厳しく言われたし、忌み嫌っていたように思う。例えば、台所の流しに置いている桶に先に水が残っていて、そこにうっかり給湯器からのお湯を入れようものなら、「だめ!」と大声で言われて急いで桶の水を流された。あまりにもよく注意されていたので、今でもちょっと気になる。でも、これに関しては母も含め、共感する人が誰もいない。なぜ、いけなかったのだろう。

あと、医療系では、歯が抜けたら「ねずみの歯と変えとくれ!」と言いながら屋根に向かって投げていた。きっと昔の庭のある縁側で行われていたおまじないのようなものだと思うが、猫の額ほどの庭から子どもが屋根の上まで投げるのはなかなか難しく、私のほとんどの乳歯はすぐに屋根から落ちて、その小さな庭のどこかにころがっていた。それに「ねずみの歯」は嫌だなと、これを書きながら思う。それから、目ばちこ(ものもらい)ができたら、家の障子の桟にヤイト(お灸)をしていた。桟にモグサを盛って、実際に火をつけていた。今なら「火事になる」と止めていた。

毎日を丁寧に、不器用に、願いをこめて生きていたのだなと思う。また思い出したら、記していこう。


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