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人は『悪口』を言わねば生きていけないのだろうか。


集団のなかで生活する以上、何かしら共通の『敵』が必要なときがあるのだろうと思う。
学校でなら先生やクラスメイト、職場でなら上司や同僚、もしくは他部署の人や他営業所の人。

先生は立場上、子どもたちに指示を与えたり教授したり、ある意味抑圧する側の存在のせいか、不平不満の矛先にされやすい。

あの先生はつまらない
あの先生の授業は面白くない
あの先生は(見た目が)気持ち悪い
あの先生はなんかムカつく

理由は何でも良い。矛先が先生に向いていれば、クラスメイト達は安全であるが、ずっとそのまま満足できるわけでもない。誰かが『敵』認定され、いじめの対象にされがちである。

そういう対象になりやすいのは、地味で目立たない存在か、あるいは目立つが空気の読めない存在など、仲間外れにされやすいタイプだろう。
学生時代は平気で公開処刑をしてみんなの前で吊し上げるような行為も起こるし、本人に聞こえよがしに陰口を平気で言うような行為もごく普通にあった。

私はそのなかで、『マシ』な扱いを受けている方だった。どのクラスに所属してもいわゆる底辺だったのは変わらなかったが、それでも自分よりさらに下がいた。私が聞こえよがしに悪口を言われる程度なら、さらに下のクラスメイトは皆の前で私物を投げられたり的にされたりするようなことがあった。

本人の耳に聞こえているかどうかなんて特に皆気にしていない。平気で酷いあだ名をつけて呼ぶようなこともあるし、『皆がやっていれば何をしても良い』が平気でまかり通るのが学校という場所だった。

そういう場所が嫌いだったあの頃、集団に馴染めない自分が悪いのだと思っていた。どうすれば虐められずに済むのか、嘲笑されずに済むのかを常に考えていたものの、ほとんど知り合いのいない高校に入っても、結局私は終ぞ馴染むことはできなかった。

部活には所属していたが、ただ辛いことの方が圧倒的に多かった。ただ高校では、私の学年は辞めたいと思いながら続けている人が数人いたので、その人たちとよく行動していた。ただ行動を共にしていただけで、本当に仲良かったかと言われると絶対的に違うと言える。

彼らが私の悪口を言っていることは知っていたし、聞こえよがしに言われることもあった。それでも一応辛い部活を共にしている仲間ではあるし、誰かが欠けると困る為、『辞められるとそれはそれで困る』という状態であった。

私は当時煙たがられているのを知っていたが、直接罵詈雑言を浴びせられるということはなかった。陰口は言われていたのだろうが、私の前では嫌悪を露にしては来なかった。『辞められると困る』と思っていたのだろうし、自分が嫌な奴になるのが嫌だったのだろうと今は思う。

当時の部活は体育会系だったため、体力作りもするし全員で一致団結せねばならないような部活だった。私がそういう『青春』『スポ魂』『友情』ものが苦手なのは、あの時の『偽りの友情』やら『団結』への恐怖が由来していると思う。

それで、陰で散々人の悪口を言っておいて、大学の頃に偶然会った元部活仲間は、そのことをすっかり忘れて『みんな会いたがっていた』なんて言うのだから恐ろしい。

思えば私は、高校時代に嫌というほど集団の醜さを肌で感じさせられたせいで、集団への恐怖が未だに拭えないのかもしれない。

自閉症スペクトラム(発達障害でASD&ADHD併発)であることも大いに関係してはいると思うが、心理士は面談で私が話した内容を基に発達障害の診断を下したに過ぎないため、私の話から判断しただけだと思っている。

少なくとも、知能検査(大人の場合はWAIS、子どもの場合はWISC)で分かることはADHDか否かの方で、あれでASDの性質があるかどうかは分からないだろうと感じた。心理士も発達障害の診断をするかどうかは、(親も含めた)三者面談で判断する割合が大きいと言っていた。
あくまで知能検査で分かるのは、発達障害の特性のうちの一部分だからだろう。

※例えば、知能検査で分かるのは主に【言葉の理解】【視覚的な情報処理】【短期的な記憶】【処理速度】の4つと渡された資料に載っていたため、どれもADHD関連ではないかと思われます。

ただ私も専門家ではないので、発達障害の診断に関しては実際受けてみないと分からないと思うが、とにかく自分がいかに社会不適合者かを語れるか否かにかかっている部分が大きいと思う。
なぜなら自分が過去の体験をもとに、うまく心理士に伝えることができなければ、心理士はエスパーではないし私の過去を分からないからだ。

今の私を見ても、発達障害かどうかは分からないだろうし、それは他の人も同じである。
あからさまに挙動不審な態度を取ったり意味不明なことを言ったりしない限り、見ただけで判断するのは難しいだろう。自分がまず話せねばならないというハードルが、明らかにあるのだ。

だから、脱線してしまったが私が集団を苦手としているのはもともとの性質であって、それだけで発達障害と診断されたわけではないので、『ASDだから』集団に馴染めないと言われると違和感がある。感覚としては、『集団に馴染めないから』ASDと判断されたに近い。

他にも診断された理由はあるし、私にはADHDの特性のうちの『不注意』(忘れっぽい、ミスをしやすい)もあると診断されている。ちなみに、私の場合はADHDの要素の方が少し強いと言われているが、私自身そっちの方が問題だと感じている。

発達障害の話になると人により千差万別であるため、どうしても説明が長くなり脱線してしまうが、つまりは集団に馴染めない=発達障害と端的には言えないということだ。

それに、集団が苦手というのは誰しも少しは感じている感情ではないだろうか。

どの集団においても、『あの先生の授業は好きじゃない』とか『あの先輩は怖いから好きじゃない』とか、そういうジャッジをしてしまうことがあるだろう。私も平気でそう言うことを言っていた。思っても口に出してはいけないこともあると今ではわかるが、当時の私はよくわかっていなかった。

今の職場でも、更衣室で誰かが上司の悪口を言ったり、泣きながら文句を言ったりしている所を偶然見てしまったりはした。
正直、かなり気まずい思いをしたが、気配を殺してすぐに立ち去ることしかしなかった。下手に声をかけず、見なかったことにするのが一番だと思ったからだ。

今のところ、同じ部署の女性が上司への愚痴や誰かの悪口を言っている場面に出くわしたことはないが、陰では言っているのかもしれない。私が知らないだけで。

私はそういうことのすべてが、正直嫌いだ。上司だって人間であるし、サンドバックではない。それで気が済むのなら良いのかもしれないが、同じ集団に属する人がその集団の中にいる人間のことを悪く言うのは、あまり良い気がしないのだ。

別の集団である家族や友達に愚痴を言うのは、ある程度は仕方がないしそれで気が済むのなら良いと思うが、同じ集団内にいる人間のことを悪く言えばその人が仲間外れにされる可能性がある。
そんなことは学生時代に誰しもが経験していることだろうし、だからこそ繰り返すのかもしれないが、それでも同じ集団に属する人のことを悪く言う人間が一人でもいるのなら、皆『次は自分が言われるかもしれない』と不安になるかもしれない。

私は不安だ。ただ学生時代とは違うことがある。
会社ではたとえ悪口を言っていたとしても、本人には悟られないようにする場合が多いということだ。その職場の雰囲気にもよるかもしれないが、聞こえよがしに言うような職場は、あまりにも雰囲気が悪すぎると思う※本人に聞こえないところで悪口を言う職場は多いが……

最悪陰口であれば、言われた側も何も知らないで済むし、仕事をするなかで嫌がらせをされなければ(質問をしても教えない、少しのミスで過剰に怒られる等)問題はないだろう。

ただし平気で嫌がらせをして追い詰めるような職場もあるだろうと思う。
集団に属さなければ会社員として生きていくことはできない以上、そういう職場でも毒されず生きていればよいが、誰かしらを悪者にしないと気が済まないのだろう。

私は前々から、三人以上集まれば誰かを『悪者』にしないと人間関係が続かないのではないかと思っている。特に偶々同じ会社で働いているだけの同期が集まれば、共通の話題は自然と限られてしまう。

何かの趣味で繋がった同士ならいくらでも話せるかもしれないが、本当に偶然出会ったに過ぎないのに、会社の仲間とは何年も付き合っていかねばならないのだ。
そのために、必然的に共通の話題である会社の誰かを話題にすることになり、その人を悪く言い始めるかもしれない。そうして誰かを共通の『敵』にして関係を維持するのだ。
偽りの絆、偽りの友情、仲良さそうに見えても違和感を抱いてしまい、私はそういうのが怖くなる。

私は今の会社に障害者雇用で雇われてから、仲の良い相手をつくらず休憩時間は一人で過ごしている。その方が楽だからだ。
集団に属すれば安心が得られるのかもしれないが、今度は自分が仲間外れにされることを恐れ、良好な関係を維持するために誰かを犠牲にする必要が出てくるかもしれないのだ。

生贄は敵に回しても大して自分たちがダメージを負わない相手が良い、反撃をしてこなさそうな大人しくて弱そうなやつが良い。そう考えれば、私のように大人しくて友達のいない人間が選ばれやすい。

つまり、生贄は別に誰でも良いということだ。仲間が多ければ多いほど対象にされづらくなるだけの話で、企業が業績が悪化すればクビにし易そうな誰かを切るのと同じで、たまたま自分が選ばれたにすぎないのだと思う。


私は、そもそも全く誰の悪口も言わず、全員が多少の理不尽も我慢し、口を噤んでいられる集団を見たことがない。
例えば一度でも誰かの悪口や不平不満を言ったら罰則にしたり、最悪クビにしたりするようなルールでもなければ、誰もが誰かを捌け口にしないと気が済まないのだろうと思う。

集団心理というものがあるが、団結するために何を犠牲にするかという問題だろう。
ただし学生よりも社会人は、学生時代よりも落ち着いてきているとは思う。ずっとノリや勢いだけで生きていられるほど、人生は甘くできていないし、誰もが何かと戦っている。

ネット世界でも、匿名である分余計に誰かを誰かが攻撃しているのを見かける。漫画のコメント欄は特に社会の縮図のようで、応援コメントが多い漫画にはほとんど悪評が見当たらないのに、批判コメントが多い漫画は批判ばかりで埋め尽くされる。誰かが批判すれば皆批判しても良い空気感になりやすい。
集団で誰かを排斥しようとする瞬間の、あの空気感のように、蔑ろにして良い存在になってしまう。

私はそういうことが全部苦手で、嫌いだが、潔癖だと笑われてしまうかもしれない。指摘のなかには最もなことを書いている人もいる。ただ評論は誰でもできるはずだ。誰もが最もらしいことを言えてしまうのである。

社会で生きていく以上、集団で孤独を感じる人間はどこまでも苦しいままだ。たとえ引きこもってもネットを漁らずにはいられない。
誰ともつながらずにどこにも属さずに過ごすことも出来るかもしれないが、そんな遮断された世界で生きれば気が狂ってしまうだろう。

生きている以上、どこかしらの社会に属している。学校や会社に行っていなくとも、ネット社会に触れることになるだろう。

弱ければ淘汰される。だが無理に強く見せようとして明るく振舞ってもうまくいかないのは目に見えている。
弱いのは仕方がない。だが弱くても真っ当に生きることはできるし、生贄になったとしても、その人の人格や性格が悪いからではないはずだ。たまたま選ばれただけに過ぎないだろうと思う。


真っ当に生きているのならば、うまくコミュニケーションが取れずとも、後ろ指を指される道理はない。
仕事に必要なのは報連相だけ。
自分の世界を守れるのは自分だけ。
社会のために誰かが犠牲になるのは間違っている。

間違い』に押し潰される必要もないし、気に病む必要もないはずだろう。
どこかに息のしやすい場所があるはずだろう。
私が今の職場で平穏を見つけたのと同じように、誰もがどこかに自分の『平穏』を見つけられる、と思っている。


※発達障害の診断について書いた記事をまとめたマガジンもあるので、興味ある方は読んでみてください。

追伸
今後は、自分の伝えたいことが書けたと思えたときだけ更新したいと思います。
私は集団が苦手で嫌悪さえありますが、それでも社会で生きたいと思っている人間なので障害者雇用を選んでいます。社会が好きかといわれるとどちらでもないですが、障害者雇用の存在のおかげで肩の力を抜いて生きることができる、そのことにはとても感謝しております。

※コメントを見るのは私自身不安や恐怖があるため見れませんが、掲示板だと思って頂ければと思います。

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