幸せでたまらない

娘が16才になった。思春期の真っただ中の、甘くてはじけるような、おとしだ。子供と大人のあいだでもある。

まさに彼女は、はじけるような姿かっこうをしている。一緒に時間を過ごす楽しい友達にも事欠かないし、一人で家にいても、オンラインでつながる友達や知り合いも多い。もう、楽しくてたまらないという感じが、朝から晩まで続くのだ。
とびぬけて頭がいいとか、自由が利くお金が山ほどある所には生まれついていないけれども、幸せな星のもとに生まれたという表現がこの世に存在するとすれば、彼女はまさに、そんな星のもとに生まれた一人と、私は信じている。

だいたい、思い返してみると、生まれたその日の姿が、もうすでに幸せいっぱいだった。生まれて数時間後に、私が休むベッドに横たわった彼女の表情や姿かたちが、「私、幸せでたまらない」と言っているようだった。思わず、カメラのシャッターを切ったけれど、その時の写真は今見ても、まさに彼女が、「幸せでたまらない」と全身全霊で言っているように私には見える。あの日から16年というわけだ。

誕生日に一日早く、親しい友達何人かがサプライズパーティーを催してくれ、山ほどのプレゼントを抱えて帰ってきた。頭には、おとぎ話のお姫様がかぶる、ベール付きのピンクの帽子までかぶっている。もう、楽しい気分ははじけまくりだ。
「お母さん、明日の午後、学校休んでいいでしょ?」
「えっ?また?なんで休むの?」
「だって、私の誕生日だよ。」
私が彼女の年の頃には、聞いたことも想像したこともない理論の展開だ。
通常、ランチは学校から家に帰って取るけれども、そのまま家に残り、午後の体育の授業を休んで、誕生日の追加のケーキを用意すると言うのだ。お祝いに駆けつける人が何人もいそうなことを思い、私が焼くケーキだけでは、足りないというのだ。私を説き伏せるのにぴったりな理論だ。
体育で少し体を動かすよりも、自分のお祝い日に自分でケーキを作ることにしたいという、はっきりした希望を彼女が主張したことに、私は喜びすら感じる。実際の所、追加のケーキはあった方がいいし、それを焼いてくれると、私は助かるのだ。
「今日だけよ。」と、ついこの前も言ったような気がするセリフを口にする。

誕生日の夜、ケーキにキャンドルを灯そうと、近所の家に声をかける。飛び込みでお祝いに駆けつける人は、やっぱりいるもので、山ほどあったケーキはきれいになくなった。
おしゃべりに花が咲き、音楽をかけて歌ったりして、楽しい時間だった。ちょっとしたケーキタイムのつもりが、もう翌日の朝にさわるから、ここまでねと言って、お開きとなった。

生まれたその日に、「私、幸せでたまらない」という姿をしていた娘。16年たった今もやっぱり、どこからどう見ても幸せでたまらない姿に、持って生まれた幸せというものがあると思わずにはいられない、娘の16才の誕生日だった。


『空の下 信じることは 生きること 1年目の秋冬』より

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