ビー君

三才のビー君が来る日の朝は、かなり早くから気を引き締めて、私は彼を待っている。早起きをするのはいつもと同じだけれど、ビー君が来る日は、私が自分に関する全てを、彼がやってくる前に済ませておかなくてはいけない。
私は、自分の事と並行して、やんわりとそのハーモニーの中で、子供たちの面倒をみるのが好きだ。でも、ビー君にはそれがきかない。
以前からの顔見知りというのでもなかった。彼は、見ず知らずの私の所にやってきて、幼稚園が始まるまでの時間を一緒に過ごすのだ。私にしても、まずは全力で臨まないと、私に必要なレベルの、彼を知るというところにならない。

まだ、朝も暗い中、ドアをノックする音でスタートだ。私は、ドアを開けた時の明るい玄関というのが好きなので、電気をしっかりつけておく。外の暗さから、明るい我が家へどうぞといった感じで、明るく出迎える。もうすでにビー君は泣いている。
「キスは3回だよ。それから4回。あと2回。」
彼は泣きながら、いつもの儀式のような、別れのキスをお父さんに要求する。玄関先で彼のお父さんが、小さなビー君の小さな頬に、あたたかくお別れのキスをする。大きなお兄ちゃんと一緒に、我が家の中に一歩入っても、再度、泣き叫びながら、去っていこうとするお父さんを呼び止める。パニックになったように泣き叫ぶので、なかなかお父さんも去れずにいる。
「もうあと2回だけだよ。これが最後。」
後ろ髪を引かれる思いのお父さんを気の毒に思いつつ、私はしっかりお別れできたのを確認したら、ドアをガシャンと閉める。カギも忘れない。一度、カギをかけずにいたら、「ワー!」と泣き叫びながら彼がドアを開け、全速力で外に飛び出したことがあった。私も全速力で追いかけた。
ビー君は、私に全力で臨ませる、そんな子だ。

窓辺に立って、お父さんの車が去っていくのを見ながら、また泣く。
「お父さんが行っちゃうよー。お父さーん!お父さーん!」
涙が止まらない彼を、彼の大きなお兄ちゃんが、優しく抱きかかえる。私は彼の、涙でぐちゃぐちゃになった顔を、ティッシュで拭く。私の所に来る時だけでなく、いつもお別れはこんな感じというから、家族は大変だ。けれども、こんなに愛情を全身全霊で表現する彼に、私は感嘆している。

「朝ごはんを食べようね。ミルクのカップはどの色がいいかな?」
「ピンク。僕はお腹がすいていないから、朝ごはんはいらない。」
そんなことを言う彼にも、だましだまし、ちょっと食べてもらい、幼稚園に連れて行く時間まで、遊ばせる。
「マ、サ、コ、飛行機つくって!」
「お庭で遊んでいい?」
キャーキャー叫びながら、水の入ったスプレーのボトルで遊び、消防士だと言って、ホースを持って、庭中を走り回る。手を土だらけにしてニンジンを掘り起こし、温室からキュウリとトマトをどんどんもぎ取る。
「ビー君、そのトマト、まだグリーンだよ。赤いのを取ってよ。」
私の言う事にはお構いなく、自分が取りたいものに、すっと手が伸びる。
「僕のお母さんにあげるんだ。スクールバッグに入れて!」
彼のかばんは、我が家で摘んだ野菜だの、テーブルの上で見つけたチョコレートだの、私が紙で折った飛行機だの、郵便受けから取ったチラシだので、いっぱいになる。何かを手にしては、「お母さんにあげるんだ。」と言う。ちょっとあきらめさせようとすると、すごい勢いで泣き叫ぶ。人の目には、それらをスクールバッグに入れるのはおかしいことでも、小さな彼には、とても大切な事に違いない。彼のかばんは、連日、たくさんの『お母さんにあげるもの』で埋まっていくのだ。

彼の大きなお兄ちゃんが学校へ行く時間になると、また、玄関口で大騒ぎとなる。
「ドアの所でだよ。キスは3回。それからそれから。。。」
お父さんにしたのと同じ、儀式のようなお別れだ。
「いってきます。」「じゃあね。」なんていうのでは、ビー君は収まらない。
「後でまた会うまで恋しいな。」「いい時間を願っているよ。」「大好きだよ。」という、あたたかいものが濃縮された一大ドラマが、毎回展開するのだ。
彼はしっかり要求する。そしてしっかり、愛情を受け取っている。

ビー君は、幼稚園までの道を、私と一緒にゆっくり進む。公園で何匹もの犬が走るのを見る。私に手をしっかり握られ、道路を横切る。道路わきの段差でジャンプする。山のような枯葉をザッザッザと足でける。水たまりの前で一瞬止まり、その中に足を踏み入れる。道路わきの大きな木の下に落ちているたくさんの小粒なリンゴを、しゃがみ込んで物色する。
葉っぱもどんぐりも、大小の木枝も、彼の目に留まって気に入れられれば、地面から拾われ、どんどんスクールバッグに入っていく。
「これをお母さんにあげるんだ。」
「これは特別なものなんだ。」

くりくりとしたオレンジ色の彼の髪が、朝日でキラキラする。秋の紅葉でどこもかしこもオレンジ色に染まっているのと、見分けがつかなくなりそうだ。私の大好きな、詩的なまでの自然の美しさの中で、ビー君もそれと一体化する。
「マ、サ、コ、月を見たことある?」
「あるよ。」
「夜に明かりが全部消えると、月が見えるんだ。」
「私は月も星も大好きよ。」
「僕、昨日の夜に具合いが悪くて、目が覚めたの。その時、月を見たんだ。白い月だよ。」
彼が気に入って手にする自然の中からのものや、突然、月について語りだすところまで、なんとなく私は、ビー君の奥底に、私と同じものが流れているのを感じて、ドキッとする時がある。

幼稚園の前庭まで来た時、突然静かになったビー君が、ちょっと遠くを仰いで、完全に動きを止めた。何か見つけたのだろうか。鳥とか、飛行機とか、風で飛ばされたビニール袋とか。
「ビー君、何を見ているの?」
彼は動かず、静かに一言、「空。」と私に答えた。その一言は、ビー君の口から流れ出た、詩のようだった。
彼が見つめる方に私も目をやると、優しく輝く朝日が木のむこうにあって、たくさんの葉っぱの間から、朝日がキラキラともれていた。ビー君はそれを、じーっと静止して見つめていた。風で葉が揺れるからか、木洩れ日はかなりキラキラと輝き続けて、とても神秘的だった。
一言、彼の口から発せられた「空」という言葉だけでも、私の耳には詩的だったけれど、キラキラする木洩れ日に心を奪われて、それを見つめる小さなビー君の姿は、秋色が広がる自然の中で、美しい詩、そのもののようだった。
彼は本当に、予想外をもって、私にいろいろな事を感じさせるのだ。

彼をお世話し始めてちょうど三週目の朝の出来事は、特に思いがけなく起こった。
その日のビー君は、我が家に着いた時から、なかなか泣き止まなかった。朝ごはんを食べては泣き、トイレに行っては泣き、スクールバッグの中にぐちゃぐちゃに物を詰め込みながら、泣いていた。
幼稚園にも慣れていないし、私にも慣れていない。小さな子供の扱いに慣れている我が子たちが、朝ごはんのテーブルで楽しそうに話しかけても、何の気休めにもならなかった。不安で、お母さんを恋しがって泣くビー君を前に、私は自分が、おもしろおかしい一瞬のごまかしにも、ちょっとした癒しにも、その他、彼にとって意味のある何物でもないのを感じていた。わかっていた事だけれど、しっかりそれを認める以外、何も彼に与えられない、そんな朝だった。
彼は幼稚園までの道のりも、ずっと涙を流しながら歩いた。私はしょっちゅう、しゃがんでは、彼の顔をティッシュで拭いていた。
「お母さんといたい。」
この言葉を彼は、我が家の玄関を出てから幼稚園に着くまでの間に、いったい何十回、言っただろうか。そして何度も、答えの分かっている同じ質問を繰り返す。
「誰が僕のお迎えに来るの?」
そして呪文のように、やっぱり同じ言葉を繰り返す。
「僕、4時にお母さんに会うんだ。」
彼の小さな手から、葉っぱや木の枝やドングリを受け取り、彼のスクールバッグに入れてやりながら、私も何度も彼に言う。
「おじいちゃんがお迎えに来てくれるよ。」
「4時にはお母さんに会えるよ。」

幼稚園に着いた時には、泣き疲れているくらいだった。
「バイバイ、ビー君。」
ビー君は、ドアが開くと、吸い込まれるように中に入っていった。くりくりとした、オレンジ色の彼の髪が、他の子供たちの間に消えていった。
私の仕事は完了。幼稚園のドアを背に歩きだして、私の心はしーんとしていた。ホッとしている時の、気持ちいい、しーんとした落ち着きではなかった。自分の中にあるものに、意識的にフタをする時の、私にだけ聞こえる、私が一人で通る、沈黙の「しーん」だ。
何でもどんどん拾い集める、ビー君の小さな手も、泣きながら、それでも行くべき幼稚園に、きちんと進む小さな足も、山ほど詰まったスクールバッグを背負う、小さな肩も、お母さんを思い続けて発する、小さな声も、止まらずに頬を流れ続ける涙も、私をしーんとさせた。

背後で急に、大きな泣き叫ぶ声がした。振り向くと、幼稚園のドアが大きく開いて、中から、オレンジ色の髪が、飛び出してきた。
「キスするの忘れてるよー!!」
泣き叫んで、すごい勢いで、私に向かって飛び出してきたビー君は、まるで、発射されたピストルの弾丸のようだった。ものすごく早くて、パワフルだった。あんなに小さいのに、弱々しさは全くなく、受け取るべきものを完全に信じて、全身全霊で、私に向かって走ってきた。
その瞬間、もう自動的に、私はひざを地面につけて、両手を広げていた。弾丸は私のハートに命中した。勢いよく飛び込んできたビー君は、私の腕の中にすっぽり入るほど、小さかった。
「ごめんね、ビー君。」
彼が壊れてしまいそうな一歩手前まで、きつく抱きしめると、もう次の息をつく間もなく、私の中からあふれかえったキスを、ビー君の両方の頬にたくさんしてあげた。大きな大きな波のように、ビー君の感情が私に向かってぶつかり、ぶつかった波が強く返すように、今度は私の中から、大きな波が、彼に向って起こったようでもあった。頭で何かを考える時間なんて、全くなかった。何かを考える必要もなく、ただ、波が波で返した、大きな大きな動きだった。
私が腕をゆるめると、ビー君は何も言わずにくるっと反対を向くと、タッタッタッと走って、また幼稚園のドアの中に入っていった。

こんな衝動のような愛情の波を、前回、感じたのはいつだっただろうか。私が立ち尽くしていると、その場にいた、同じく子供を幼稚園に連れてきた年配の女性が、近づいてきて言った。
「感動して涙が出そうだったわ。」
映画なんかを見ていると、登場人物の関係が大きく変わる、何かが起こったり、真相のようなものが表面に現れる、究極の場面がある。そんな感じだった。
彼が全速力で、ドアから飛び出して走る姿が、私の脳裏に焼き付いている。お母さん恋しさにあふれ、不安でいっぱいの小さなビー君に、与えられる限りのものを与えたい私が、何かを与えることを許された瞬間でもあった。

母性本能は、神様から与えられた贈り物と私は思う。非常に幸運な事に、私はこれに恵まれ、これを使って、自分の子供を愛し、育ててきた。自分に充分すぎるほど備わっているものだから、頭を使って考える必要もなく、苦労して磨く必要もなかった。他人の子供にも、それは働く。誰もが充分持っているものでもなさそうだ。
自分の中に、そんな神様からの贈り物が備わっていると感じるのなら、それはありがたく、思い切り使ったらいいと私は思う。与えたくて与えたくてたまらない愛情は、与えても与えても、決して尽きずに、あふれ続けるものと私は信じる。

ビー君は今週も、たくさん泣くだろうか。詩のような言葉を、私に聞かせるだろうか。
与えられるものが自分にあることに、心から感謝したい。


『空の下 信じることは 生きること 2年目の秋冬』より 

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