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「拝啓、夏目漱石様 四通目」

 立春過ぎて、草木の枝先春の待ち遠しいこの頃です。先生へ新年のご挨拶も儘ならぬうちに節分も過ぎ、私は鬼退治しようかそれとも止そうかと、豆を齧り恵方巻を齧り鰯を齧りして、全く歳を重ねると偏屈になって不可いけません。

 それはそうと先生、私は過日ようやく「彼岸過迄」を、此れが何度目だか忘れてしまいましたけれど読み終えまして、又「それから」を読みたく思いながらも、買って手を付けられずにいる太宰先生の小説を愈々いよいよ読み始めようかと迷っている処なのです。昨年の夏からは執筆の方へ時間を割く余り、読書の時間がすっかり減ってしまいました。読みたい本は手元へも本屋の棚にも沢山在るのですが、どう時間を作ろうかと考えている処です。或いは手紙も書きたい気持ちが募るばかりで、私と云う人間は、つくづく欲な生き物だと呆れ返ります。

「それから」は先生の生み出された数多の作品の中でも、どうしてだか自分の心を特に掴んで放しません。全体何処がそう気に入ったのか、僭越ながら考察致しまして、今日は此処へそれを一寸ちょっとだけ御披露させて頂いてもよろしゅうございますか。考察と申しましても、それ程難しい事は考えておりません。何分読書中は物語に没頭する性質たちでして、本を閉じて始めて世界に帰還するような始末です。

 先ず思い致すのは表題であります。「それから」の「それ」と云うのは、誰にとっての、どのような出来事を差しているのか。此処が私には重要なのでした。何が重要なのかと云って、私にとり代助と云う主人公は思い入れが強く、彼の幸福について考える時にはどうしても重要な事なのです。そうして私の考えでは「三千代が代助(自分)の親友と結婚してから」ではないかしらと思った次第です。それからは代助を主軸に物語が進んで行きますし、彼は始めから仕舞いまで、ひたすら三千代に想い馳せて生きていると考えざるを得ないのです。

 ところが時代はそれを認めません。それはもう現代の自分にはもどかしい程に社会の理が違うのですね。そうかと云って現代社会の方が寛容かと問われればどうとも言い切れません。唯受け容れ方に柔軟性が少しばかり付け足されたような気の致します。

 この全くどうにも動かせない苦しい状態の中で、極々薄い、儚いけれども余りに鮮やかな光の筋を一本差し込む三千代と云う女性と、詰まる所不器用過ぎた代助の生き様が、私の心にも光を当てるのです。何と云えば良いのでしょうか、己の未熟さ故に上手く言い尽くせそうにありませんけれど、絶望に苛まれる浮世の中で確かに咲き続けようとする凛とした花。二人の命にその様な美しさを感じます。決して報われる物語でもないのですが、私は惹かれて止まない。何度でも手に取ってしまう作品です。もしも生きる世が違ったならば、代助の人生はも少し違う形で救われた筈で、又三千代にしても同じ事が云えたろうと思うのです。

 それにしても、生まれて来る時代を間違えたと思うのは、いつの世でも人の心に生まれるものなのでしょうか。これは「それから」の登場人物を外れた個人的な話になりますが、自分は生まれて数十年、歳重ねるごとにもう何度そう思ったか知れません。夏目先生には容易にお会いできませんし、現代社会の足りるを覚えずどこまでも速さと利を求めるに息苦しさを覚えますが、自分には如何ともし難いのです。

 けれども同時に思う事は、そんなものへ不平を述べるのは唯自分が至らないだけと云う事実です。余所の家の芝生が青く見えるのと同じであります。第一、今生きて居らなければあの人にも出会えませんでした。私がこうしてこの時代に生まれて来た以上は、其処に何某かの意味がある筈で、勝手に現実逃避するのも構わないけれど、出来る事なら此処に生きる意味を全うしたいと、知らず載せられているであろう運命だか使命だかの上へ立っていて構わないから、この命を全うしたいと、屹度きっとそれでいいのだと思うのです。

 そう考えますと、自分の物の様で又自分の物で無い様な、我が人生であります。そうして、先生はすっかり御承知の事とは思いますが、なんだかんだと云いながら私は楽しんで生きて居ります。無論の事その下には苦しみも悲しみも石垣の様に積まれて来たものでありますが、そんな物の存在しない人がこの世に在りましょうか。私はそう云う人に出会った試しがありません。今後出会おうと出会うまいとどうでも構いませんけれど、いずれにしても私は今書いています。書いて生きる毎日が幸福の時間であり、また同時に私の生きる意味であります。此の先の人生も、書く事で私は生かされ、そして救われるのだと思います。


 先生は御自分の生涯をどのようにお考えですか。振り返る事はおありでしょうか。今度ゆっくり、そうだ、美味しい玉露と羊羹を持参致します故、座の端に自分も座布団置かせて頂き、お話し下されば幸いにございます。

 まだ寒さが募ります。お風邪などお召しになられませんよう、どうかお体にお気をつけられて、朗らかな春を迎えられますよう、お祈り致しております。                         敬具                      

                  令和三年二月五日  いち


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