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読み切りよりみち「ご飯を食べに行きましょう・前編」

※長編小説シリーズ「よりみち」の番外編です。長編でじっくり描く二人の関係性を凝縮したような読み切りです。
時系列で云いますと「よりみち・二」の後、秋のお話になります。「よりみちシリーズ」を読んでいなくてもお楽しみ頂ける内容となっております。
全編どなた様にもお読み頂けます。


   読み切りよりみち「ご飯を食べに行きましょう」(前編)


 真瑠まるの日常的に足運ばせる散歩道で、コスモスが揺れるようになった。誰かの家の庭先で、畑の一角で、公園の隅で、土手で、すいすい背を競い合っては、明るい花顔空にひた向けて、隣と一緒に揺れている。独りぼっちで居るのは無い。みんな少しずつでも寄り合っている。その法則に気が付いた時、それがコスモスの真正直だかどうだか真瑠に知る由もないけれど、屹度きっと数本以上で揺れるコスモスに気が付いた時、まるで雨上がりの空から雲がはけて、日差しが地上へ降り立つ時のようににこやかな心持ちがした。

 靴底で茜色に覆われる秋の大地踏みしめながら、今夜の話題が一つできたと、真瑠は頬の内側へ楽しみ押し隠す様にして家へ帰った。

 夕食は脂の乗った秋刀魚を二尾焼いて、大根おろしとぽん酢を合わせ、レモンも櫛切りにして用意した。食卓へ載せたい旬のものが巷でも豊富で、買い物へ出る度今日はどれにしようと、買い物メモもそっちのけで、瞳が嬉し気に彷徨う。栗や茸の炊き込みご飯を作れば彼女は屹度喜んでくれるだろう。柿は固めが好きだった。梨も同様。葡萄は夏から長く楽しめるを喜んでいた。真瑠は食卓へ秋の彩りを広げては共に味わう日々へ想い募らせて、いつでも手元を張り切らせていた。

 近所のスーパーでアルバイトを始めて数か月が経つが、真瑠の軸足は変わらず家に、と云うよりも彼女との暮らしに在り、その思考や理論は殆ど同居人を喜ばせたいと云う希望の為に使われている。

 没交渉で、自身でも呆れる程の潔癖と憶病とを常に発揮して已まない真瑠であるが、そうして生きて来た独りきりの云十年の中で、或る日煌めくように人生を交錯させたりか子と、それが実はりか子の側は幾日もの観察を経た用意周到の上へ立つ交錯であったのだけれど、結果的に道端でとんと混じり合った二つの歩みを、真瑠は自らの意思によって隣に並べて走らせている。思いがけぬ彼女の優しさに触れながら、人知れず彼女へ懐いて、いつの間にか寄り添うように生きるを己の励みとしている。それはりか子の側も望んだ形であったらしいが、自身の人生の歩み方は不器用であると云う自覚が存分にあった真瑠には、全てが、日を重ねるごとに望外の幸せであった。かつて体験したことの無い、人生の歓びであった。

 夏日をかわした樹の下で、ベビーカステラの残り香に囲まれつつ、今更一人にしないで欲しいと、彼女へ対して正直を打ち明けられたことは、真瑠自身予想外の成長であると、珍しく得意にさえ思っている。唯思い出すには少しばかり熱を持ち過ぎていた。真瑠には全く慣れない仕業しわざである。それで身の内の広大な海の中、特別な思い出の箱あつらえて、あたかも日常風景の一コマとして、その実しっかり包装までして大切に仕舞っているのだった。

 黙々と二人分の夕食をキッチンカウンターへ並べていると、玄関の鍵がガチャンと音を立てて、同居人の帰宅を知らせた。エプロン姿の人は先ずその気配だけで一つ頬を緩める。洗面を済ませてこの空間へ辿り着く彼女が今夜はどんな反応見せるか、飽きもせずに毎日楽しみにしている。茶碗を二枚棚から取り出す指先が、スリッパで歩き回る軽快の足元が、平静を装ったつもりの両肩が、唇動かす前から嬉しさ白状している。そしてそんな気配に敏感な同居人が、浮かれる真瑠に気が付かない訳が無い。扉を開けて入るなり、室内へ充満する魚を焼いた匂いと、全然隠せていない真瑠の喜びの詰まった頬を認めて、早速触れに行きたい衝動に駆られる。

「ただいま」
「おかえりなさい」
「食堂みたいな匂いがする」
「秋刀魚を焼いてしまったから。それに丁度味噌汁が仕上がったところですよ」
 りか子はすいとキッチンカウンターの方へ近付いて行く。隣へ並べばコンロの上で、火を止めたばかりの片手鍋から香ばしい味噌の湯気が立ち昇っている。この、熱々の出来たてを食べさせたい一心の真瑠は、お玉片手にりか子へ料理人の瞳を注ぐ。その瞳は早く着替えて来て下さいねと誠実を物語っている。りか子は一旦退くを余儀なくさせられた。其処そこを引っ繰り返して遊びにかかると流石さすがに真瑠へ対して不遜であると思った。今日は素直に従おう。それで微笑して、着替えて来るわねと一言添えるなり、自室へ向かった。

 真瑠はコスモスの話を余すことなく披露した。りか子はそう云う、天然自然に触れ合ってすっかり心満たしている真瑠の話を一頻り聞いた。夕食後、二人はお腹休めとまだカウンターの黄色い椅子へ腰掛けていた。今度はりか子が真瑠を喜ばせたい番である。名前を呼んで、呼ばれた方は素直に、まだはしゃいだ笑みの余韻を残したままの瞳を彼女へ合わせる。
「それじゃ今度は私から、秋を満喫しているあなたに」
 りか子の目が笑った。

「美味しい和食が食べたい人」
「はいっ」
 真瑠は思わず手を挙げた。真っ直ぐに、正直に、一斉に五指を天へ持ち上げて気持ち良く返事した。してしまってから、急速に恥ずかしさ押し寄せてすっくと伸びた腕を亀の首のように引き込めた。しかし既にりか子の瞳に持ち上がった腕の残像焼かれてしまっている。りか子はあんまり素直な生徒に想像以上の反響を得たと思わず顔綻ばせ、そうしながら自分の所業で座って居られなくなった食いしん坊の子の腕を、二本とも押し留めるように掴まえて椅子へと戻らせた。

「明後日の十八時よ」
 腕を捉えられたままの子は、驚いた瞳を持ち上げた。
「え、もう決まった日にちがあるんですか!?」
「ええ」
 真瑠はすかさず自分に別の用事があった場合どうする積りだったかと思ったものの、活動家の彼女とは違い、自分の側へそんなものが生まれる筈も無く、また彼女もそうと分かり切っているから既に決めてしまったのだろうと考えた。口をぽかんと開けてしまったものの、実際その通りであるからなんの不満も起こさなかった。驚きを通り越すと、間近に迫る楽しみの方が胸に浸透して、食いしん坊の頬を緩ませる。
「そうか、今日はりか子さんにとっておきが在ったんですね」
 腕はようやく解放された。

「そこ、繁盛店なの。中々予約が取れないけれど、キャンセルが出てね、女将さんが連絡下さったのよ」
「そうなんですか」
「どうしても連れて来たい人が居るからって、お願いしておいて良かったわ」
 そう云って微笑むりか子が真瑠に眩しい。おもむろにがたんと空気を切る。真瑠はとうとう菜の花畑色の椅子から立ち上がった。りか子の瞳がどうしたのかと問うている。立ち上がったもっともらしい理由を探す瞳はカウンター上の食器に止まる。

「片付けます」
「今?」
 短い言葉と向けられた視線に、只今の余韻は無いのかと云う非難が籠められている。真瑠は其の視線を正確に読み取りつつも躱しながら、明後日に向かって
「後からじっくり味わうんです」と呟くように言い訳した。
 手はてきぱきと空いた食器を片付けにかかっている。隣からいぶかる視線を浴び続けて、早くカウンターの内側へ避難しようと一層急ぐ真瑠を、りか子が目で追っている。

 さては逃げたわね。
 其処に気が付いた彼女は、途端に詰まらないと思った。近頃察しが良い上に躱し方まで身に着けて、それが断然詰まらない。だが、躱し方は覚えても、本式に逃げる手段を選べない真瑠をりか子は知っている。それは相手を傷つける行為と判断する真瑠は、自分へ対して絶対にそんな態度を取らないと、りか子は断言する。なにしろ自信が或る。彼女は人知れず微笑した。
懸命に目を合わせまいとして食器洗いに没頭するフリを続ける真瑠を尻目に、りか子も遂に椅子から立ち上がった。先に風呂を済ませてしまうことにする。ダイニングキッチンを立ち去りながら、後で逃げた分の利息を払って貰おうと勝手に心積もりした。


 翌朝、りか子の出勤前、毎朝のことながら奇麗に仕上がった彼女の立ち姿を認めて、真瑠は不図ふと思いついた。食事の日、りか子は当然出勤日で、夕方会社から直接店へ向かうのだ。そうなると必然的に、社会へ一人前に通用する華やかな装いとなる。自分の側も釣り合いの取れた格好をした方が良い様に思った。
「ご飯の日、りか子さんはお洒落してますよね」
 後ろから声の掛かって、りか子は振り返り瞳で真意を問う。
「仕事の日だから、今日の様な」
「そうね」
「それなら自分は、あの、夏にあつらえて貰った上下を着てもいいですか」
 りか子の脳内で急速に時間が巻き戻されて、過日の眩しい夏の光景が、ありありと瞼の裏へ浮かんだ。

「ええ、勿論よ」
 真瑠はも嬉しそうに顔綻ばした。されるがままであった採寸の時間を乗り越えて、仕上がりを指折り数え、そうして自室のクローゼットへ迎え入れた一張羅に、とうとう出番がやって来た事が無条件に嬉しかった。

 遠慮なく喜びをあらわにされて、りか子の胸の内では青い波が立った。沖合から連なってざぶんと打ち寄せて来た。社会へ立つ責任者の人間の衣を纏おうとしている処へ、いとも容易く浸透してきた。夕べにしろ、今朝にしろ、どうやら同居人が真っ正直に過ぎるのだと思う。躱した事を責める癖、同じ心で真っ正直に動揺させられている。

 りか子は思った。一年前の秋、此れ程打ち解けた様子を見た事があったかしら。穏やかに肩を揺らして、にこにこと頬和ませる様子を見せた事があったかしらと思い返す。確かに出会った当初よりは笑う様になっていた。呼べばいつだって隣へやって来た。しかし矢張り違うのだ。こちらへ向ける眼差しの柔らかさだとか、二人の間へ保とうとする自己領域の盾が、その強度が違うのだ。一年前の真瑠は真っ先に手を挙げたりしない。先ず脳内へ取り込んで思案しながら警戒している筈である。自分の方から余所行きの服を揃えようと、仮令たとい思っても口には上らせられない。こちらが持ち出すのを待っていようとする。そんな不器用で押し固めた人間であった。それがどうだ、この成長ぶりである。二人の間には、最早盾など無いに等しい。

 全く、三百六十五日をかけて、二人で積んだ功績に外ならなかった。二人で重ねた日々の生み出した、一滴ひとしずくのダイアモンドに違いなかった。

 彼女は真瑠の素直に、実はいつだって翻弄されている。淡い幻想テトラポット打ち砕いて、波に戯れつつ己が身を遊ばせそうになる。りか子は半ば身を浸らせそうになった。実際脛くらいまでは浸かってしまった。寄せる波を相手へも被せそうになる。だが愈々いよいよの波打ち際で、思い留まった。瞳だけで、楽しみね、と語りかけた。
 真瑠は笑ってうんと答えた。他者へ警戒の鎧纏ってはばからない真瑠は、りか子へ対してだけそれを発揮しない。遠慮なく、嬉しさ隠さずにうんと頷いた。りか子は朝から若干逆上のぼせた気味で家を出た。



 外で待ち合わせる。それが二人には新鮮な趣を持っていた。街灯が灯る賑やかな街。表通りの店は軒並みディスプレイも華やかに、いずれ来る寒い季節への準備に余念がない。今夜二人が伺う店は、そう云う賑やかさから離れた小路に面した店である。表の看板も慎ましく、暖簾こそ掛けてあるものの通りからは見つけにくい。りか子はこれを憂慮して、一つ手前の通りで待つよう真瑠に伝えた。地図を見せて此処で待っててと云うと、真瑠は直ぐに了解した。

 おろしたてのぴかぴかに袖を通した真瑠は、云われた通りの場所へ立った。己の姿は出掛けに鏡の前でしつこく確認して来たが未だ慣れない。こうも外気にさらされると、何だか心許ない。裸で道端へ立たされているのと変わらぬ心細さが或る。真瑠は同じ場所で六回目の腕時計の確認をした。時刻は尋常に数分だけ進んでいた。りか子が遅れているのではない。真瑠が早く来過ぎたのだ。

「早く来ないかな」

 誰も聞かないのを良い事に、勝手を零す。云っておいて自分の不手際知ってるものだからふんとわらっている。七回目の確認が出た。真瑠はりか子が出社した後、店の名前と住所からホームページを探し出して地図を見ていた。その見当でいくと、この小路を入って、大体あの辺りではなかろうかと、首を伸ばしてそちらを暫し伺い見る。只通りからは何も見えないでいる。試しに先へ歩いて行ってみようか。そんな気も起こしたけれど、それでりか子が自分を探すと気の毒である。外を歩く真瑠は連絡不能の人である。心得ておかねば周囲が困るのをよく知っている。真瑠はその場を動かないことにした。

「真瑠ちゃん」
 小路に夢中になる余り通りからの風を失念していた。だが反射的に振り返った。向かい合って、新鮮であると思う。朝と夕暮れ前と、別々に家を出て、外で合流した。そわそわした。落ち着かない表の裏で嬉しさが込み上げていた。りか子に両方共見破られている。りか子はどっちを受け止めればいいのかしらと苦笑した。
「お待たせ」
「―いえ」
「よく似合っているわ」
「ん、ああ、ありがとうございます」
「行きましょうか」
「はい」
 並んで歩き出してから真瑠は自分の不足に気が付く。慌てて一息に全部出て行く。

「全然待ってませんよ。それより、お仕事お疲れ様でした」
 りか子はちらり隣へ視線走らせて、微笑した。ロボットが只の人に戻るには、敢えて押すのが良いかアルコールの作用が良いか、より効果の或る方を選ぶべく秤にかけて遊んでいる。真瑠は真瑠で、朝見た時と変わらぬ彼女の姿が不思議でならなかった。
「変わりませんね」
 思わず口を衝いて出て、慌てて唇引き結んだ。何のこと?と彼女の黒い瞳が問うてくる。真瑠は小首傾げて小路の白線を追った。勢いつけて一人先へ進み出す処である。
「ここよ」
 りか子が先走ろうとする真瑠の機先を制した。立ち止まって、成程確かに先刻さっき見当を付けた場所に簡素な看板が出ていた。真瑠は暖簾を繁々と見上げた。

「お腹空いた?」
 隣でりか子が尋ねる。これほど簡単に答えられる質問もないから真瑠は得意である。
「ぺこぺこです」
 二人は笑いながら暖簾を潜った。

ー前編おわりー


読み切りよりみち「ご飯を食べに行きましょう」(中編)に続くー




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