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掌編「現場からは以上です」


 黄色い規制線をぐいと押さえ付けて現場入りした。市内の安いアパートの一室で、事件は起こった。110番通報してきたのは被害者と同じ大学の友人。数日無断欠課を続ける友人が気になって訪ねて来たらしいのだが、呼び鈴を幾ら押しても反応が無く、それどころかドアの向こう側、つまり部屋から、何か物凄い圧迫を受ける感じがしたのだそうだ。ドアを叩いてみるがやっぱり応答なく、とうとう管理人を呼んで鍵を開けようとしたと云う。ところが試しにドアノブに手を掛けると、鍵が掛かっていなかった。愈々心配になったその友人は、応援を呼ぶ前に思い切ってドアを開いた。

「そうしたらそこの四畳半で、人が死んでいたそうです。身元確認を行ったところ、ここの住人に間違いありませんでした」
 二人は靴にカバーをつけて室内へ足を踏み入れた。ベテラン刑事は直ぐに現場の異様さに気が付いた。
「臭いがしねえな。機捜は何と言ってた」
 無臭なのである。死体が在ったはずのその室内は、血の匂いが全くしないのだ。部下は聞いたままを上司に告げた。
 死体はうつ伏せに倒れ、顔は右に向けて、瞳は何かに驚いたように開いたままであった。両手を口元へ当てていたのか、腕は肘から上に持ち上がっていた。死体の目線の先と思しき辺りには、開きかけのぶ厚い本が一冊。血は一滴も流れておらず、外傷も見当たらなかった。
「ただ―」
 部下の男はそこで言い淀んだ。上司は怪訝そうに顔を上げる。早く言えと、催促している。

「遺体の口はいっぱいであったそうです」
「何でいっぱいだったんだ」
「文字です。口の中からまるで溢れ出す様に、そこら中に文字が零れて足の踏み場もなかったそうです」
 この報告には流石のベテラン刑事も言葉を呑み込んだ。未だかつて経験した事のない現場であると認めざるを得ない。まさしく(異様)と云う二文字しか頭には浮かんでこない。
 現場保存は鉄則であるものの、余りに軽い一文字一文字が、ほんの少しの風圧でも舞い上がって機捜の動きを抑圧して仕方が無く、上と掛け合ってそのおぞましささえ演出している大量の文字だけは先に回収される運びとなったらしい。狭い部屋を見回しながら、部下はまるでたった今もそこに文字が散らばっているかのように気味悪がる顔をした。

「因みに本は、辞書のようであると云う報告です」
「のよう?」
「特定できなかったそうです。その、文字が、一文字も無かったものですから」
 本の形を成したそれが、遺体の傍へ一冊あっただけ。そうして死人の口から溢れる様に部屋を侵食していたのは文字、文字、どこまでも、文字。二人の刑事は、鬱蒼とした黒文字に埋め尽くされる四畳半を想像して背筋に冷たいものを感じた。
「―全部、呑み込んだんでしょうか。それで納まりきらずに、溢れ出して・・」

 窒息死か、或いは溺死か、圧死の可能性もあった。
「自殺か、事故か、他殺か」
 ベテラン刑事は最早型取られたテープ枠だけとなった死体の跡を見詰めながら考えた。百科事典並みの本の文字を全て。これだけの文字を呑み込ませたのは一体誰なのか。それが問題であった。自ら望んで飲んだのならば事故か自殺で片が付く。然し飲まされたとなると犯人を捜さねばならない。現状に於いて他殺の可能性は低く見られているものの、謎の多い現場には違いない。ベテラン刑事は知らずふうと溜息を吐き出していた。長年刑事畑を歩いて来て、それでも矢張りこんな現場は初めてであると改めて思う。厄介には違いない。
「どうせなら仏さん、犯人の名前だけ辞書に残しておいてくれりゃ良かったんだ」

 ベテラン刑事は身勝手な愚痴を零しながら、まだ室内へ取り残されたままの、装丁や形だけは分厚く立派な一冊へ視線を移した。見事なまでに印字が無く、こうなると本としての価値は不明である。然しながらページを眺めていると今にも言葉が浮き出て来そうな、妙な想像を搔き立てられる。

 四畳半の窓は二人が訪れる前から開けっ放しになっている。今日は朝から快晴で、不定期に風が吹き付ける日である。不気味な残り香だけを放つこの部屋で、真っ新に戻された辞書らしき本のページが、風に吹かれてぱらぱらと捲れた。

 現場からは以上です。

     ――ジショヨリモエラクナリタカッタ――

                                              おしまい


※以前Twitterで書いた140文字の小説をnoteサイズの掌編小説にしてみました。因みにTwitter版は下記です。

「人が死んでいる。傍にはぶ厚い本が一冊。血は一滴も零れていない。「本は辞書のようです」「のよう?」「特定できません。文字が一文字も無いのです」死体の傍と、口から零れているのは全て文字である。「全部呑み込んだんでしょうか。それで納まりきらずに溢れ出して・・」「自殺か、事故か、他殺か」
これだけの文字を呑み込ませたのは誰なのか。それが問題であった。真っ新に戻された辞書らしき本のページが、風に吹かれてぱらぱらと捲れた。」


お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。