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掌編、短編小説広場

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此処に集いし「物語」はジャンルの無い「掌編小説」と「短編小説」。広場の主は「いち」時々「黄色いくまと白いくま」。チケットは不要。全席自由席です。あなたに寄り添う物語をお届けしたい… もっと読む
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2020年10月の記事一覧

短編「駆け込み交番」

 私は懐へ手を入れて、愕然としました。ずっと其処へ入れていると安心していたのに、無いのです。確かに入れたはずなのに。そう思い、もう一度ポケットをまさぐりますが、矢張りありません。私は街灯の下で、立ち尽くしてしまいました。しかし、いつまでもだいの大人が、失くし物をしたからと言って、棒立ちしている滑稽もありません。私は少し冷静になろうと、夜の街の、決して旨くはない空気を吸い込み、そうして吐き出しました。  いつの間に、落としたろうか。出来る限り遡って、記憶を辿ります。去年の秋は

短編「いつか、雨上がりの空に」

 生まれて此の方、自分と云う生き物を、疑いながら生きている。面倒くさがりで、ご都合主義で、我が儘を隠しながら巧妙に世を渡り歩いて、そのくせうんと憶病である。人の顔色が気になって、背中を向ける勇気もなくて、いつも周りを眺めながら、お人好しを見せようと思って張り切るけれど、本当は布団に潜り込んで出て行く気のしない一日もあるし、人目を憚らずわんわん号泣したい月夜がある。後ろ指をさされても、堂々と主張したい夜が在る。  私は何の為に生まれて、何処に向かって生きるのか、教えてくれる人

掌編「おやすみ、世界」

 日が短くなって、僕の家にも灯りがついた。秋の空は清らかで、美しい。けれど瞬く間に落ちていく。僕は薄暮に包まれる。空に残るのは、明日へと続く雲の階だ。いずれ訪れる闇の中でも寄り添って、慎ましく、朝日を待っている。  烏が一羽、飛び立った。僕を追い越して、先へ行く。おやすみ。紅がそろそろ山に隠れる。家へと続く石を飛んで、僕は背中に明日を乗せる。  ただいま。  そして、言う。おやすみ、世界。

掌編「この地球のどこかで」

 私が生まれたのは、この場所だった。偶々だったのかも知れないけれど、運命だったかも知れない。時代が一つ違うと、全然違う日常が私を待っていた。場所が違うだけでも、やっぱり全然違う暮らしをしていただろうと思う。  結果的にここに居る私は、幸せかと人に問われたら、どう答えようか。三十年以上も生きて来て、まだ求めてしまう私を、人に向かって、幸せですと言っても良いものだろうか。求めるものが大きすぎて、自分でも笑っちゃうんだけれど、それでもどうしても欲しい。そういう自分は、愚かだろうか

掌編「好きなのを持って行きなさい」

 今年もそろそろだと、空を見上げて思う。  農家の石井さんの奥さんは、畑で季節野菜を作っては、町にある道の駅へ毎朝運び届けている。 他には自宅用と、御近所へ配ったりするだけで、それほど大きな畑ではないけれど、無農薬に拘って、毎日愛情込めて育てている。旦那さんはサラリーマンでもあるので、畑は殆ど奥さんが世話している。  石井さんがそれに気が付いたのは、数年前の、ある朝のことだった。畑の一角で世話する南瓜が減っている。間引く積りの小振りな子ばかり、少しだけ。出荷する分には困ら

掌編「変身」

 町中の、至る所に或る赤いポスト。実はあれ、緊急時にある手順で操作すると、ロボットに変身するらしい。  私がその話を聞いたのは、新聞を広げていたファミリーレストランだった。四人掛けを独り占めして、足を組んで、偉ぶってスポーツ新聞を広げていた私は、目の前のスキャンダル記事そっちのけで、その話に耳を傾けた。話しているのは若い男が二人と、女が一人の三人組。こちらが聞き耳を立てているとは知らず、それにしても遠慮の無い大きな声で話している。言い出したのは男Aとしよう。男Bは「まじかよ

掌編「天然工房」

 二十数年も生きてきたら、くさくさもするんだ―  私は最近ちょっとしたことでも腹が立った。店員の笑顔が曖昧なだけで馬鹿にされていると思い込むし、デスクの端からボールペンが転げ落ちると「もうっ!」と怒鳴る。ボックスティッシュを取ろうとして端がビリっと破けるだけでも舌打ちしたくなる。  そんな話を友人のママにすると、「天然工房」を勧められた。ママ曰く、あなたみたいな子がみんな行けば、世の中は平和を取り戻すという。私は話半分に聞いていたけれど、帰りがけにママが店の名前と地図を描

掌編「予約できます」

 近頃流行っているという噂を聞き付けて、私は町はずれにあるその店へ行ってみた。店の前に行列は無い。目立った看板も無く、少し首を傾げる。しかし、そういう店に限って、運命的な出会いをもたらしてくれるものだから、私は気を取り直して扉へ手を掛けた。 「いらっしゃいませ。どなたかのご紹介で?」 「いえ、噂で聞いて、流行っているそうだから、気になって」 「成程。ご来店誠にありがとうございます。どうぞこちらへ」  そう言って若いスーツ姿の男性に案内されて、私は店の中央にある椅子の一

掌編「社会の片隅で」

 職場で買い出しを頼まれた。良くあることだ。渋る人も居るけど、自分はどちらかというと行きたい。外の空気に当たるのが好きだから。  ずっと箱の中って、息が詰まる。恐怖症ってほどじゃないけど、ずっと囲まれた空間に居ると、段々、突然に堪らなくなる。「うおー!!」って拳を突き上げて、スーツの腕周りが窮屈になって、シャツの裾がズボンからはみ出る位に暴れたいような気がして来る。  職場は街の中心地にあって、百貨店が近い。今日頼まれたのはデパ地下の和菓子。取引先への手土産だそう。歩いて

掌編「里芋の花」

 朝起きたら、部屋の窓を開けて空を見る。夏の暑さは峠を越えて、日が昇ったばかりの町に涼やかな風が吹く。今朝の空には風に払われたような筋雲が幾本ばかり。電線の横切られた空にはいつまでも物足りなさが残るけれど、もう慣れた。人と自然。頬にひんやりとした朝を受けて、私は階下へ降りて行く。  家族はまだ布団の主。夢の主役。学生の皆卒業してしまった私に、十数年振りで訪れた忙しなくない朝。静かに鍵を開けて玄関を出る。中古でも戸建てを見つけてくれたお父さんに感謝する。玄関は緑の広場。季節の

掌編 「お茶目な人」

 先生は大変気難しい方で、例えばお茶菓子を用意するにも、一つ手順を間違えますと、出来上がりが変わってしまうという理由でお叱りになります。  先生は、一つ一つの動作には、その前後へ与える働きが在って、全ての作用が噛み合ってこそ人の心を動かす物が生まれるのだと、仰います。  先日も、私が少し、ほんの少しでしたけれど、台所でお湯を沸かす間に、うとうととしてしまい、あっと気が付いた時には、薬缶が笛をぴゅーぴゅー鳴らしまして、それは盛大に鳴るものですから、先生が何事かと駆け付けて来