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物語を愛するとは、報われない片想いをし続けるということかもしれない

 私は、物語が好きだ。
 自分の生きている ”現実” との境目が分からなくなるくらいに、物語に依存して生きている。

 とりわけ、小説として描かれる物語が好きだ。
 小説、つまり本という形をとった物語は、表紙を除けば、ほとんど絵はないし、音も出ない。
 ただ文字がひたすらに、数百ページにわたって印刷されているだけ。
 それなのに、私にはその世界が見えるし、聞こえるし、香りや風さえも感じられる。

 何とも不思議で、とってもいい。

 夢中で読書しているとき(いわゆるゾーンに入っているとき)は、もはや「読んでいる」という感覚はない。
 バスの中だろうと酔わないし、授業開始の号令でみんなが起立しようと気がつかない。
 魂が現実を離れ、物語の世界に飛んでいる、とでも言えばよいだろうか。
 私は確かに、彼らの姿を見て、声を聴いているのだ。

 しかし、そのことに気がついたとき、魂が飛んでいたと自覚した瞬間、私はこちらの世界に引き戻される。
 そうすると、もはや彼らの顔はよく見えない。
 声は何となく思い出せるけれど、姿形は、よく見ようとすればするほど、靄がかかったように遠ざかってしまう。

 だから、漫画化やアニメ化、実写化などは、それはそれで嬉しいこともある。もちろん、例外だってあるけれども。
 でも、その作品と作品を愛する人々に敬意を払い、関わる人々も作品を愛していれば、物語は新しい形をとって輝く。
 小説の物語とは、私の魂が飛ぶ場所とは違うけれど、これはこれで好きだと、あくまで私はそう思う。

 こんな風に物語を愛している私は、好きになる人、憧れの人も、物語の世界の住人だった。
 『三毛猫ホームズ』の片山に、『図書館戦争』の小牧、『RDGレッドデータガール』の深行…
 少し考えただけでも、たくさんの人物が浮かんでくる。
「八咫烏シリーズ」に至っては、若宮、雪哉、澄尾、浜木綿、真赭の薄…等々、枚挙にいとまがない。箱推しだ。

 ただの妄想、オタク心だと侮るなかれ。
 確かに、一般的な「恋」とは違うかもしれない。
 でも、彼らのことを考えるだけで、胸がぎゅっとしたり、頬が緩んだり、勉強が手に付かなくなったり、いろいろと深刻な症状に見舞われる。

 それどころか、現実の人間を愛するよりハードかもしれない。

 だって、彼らとともに年をとっていくことはできない。
 物語が「完結」したら、その先は想像することしかできないのだ。
 こちらから迎えに行くことも叶わず、主導権はいつだって向こうにある。
 数ヶ月、場合によっては数年間、モヤモヤを抱えながら待った続編は、「終わり」へと一歩進んだ証でもあるのだ。

 そして、彼らの眼に、私が映ることはない。
 いつだって透明人間だ。
 私には、彼らのことが見えるし、聞こえるし、想える。
 でも、彼らの頭の中には、私の存在なんて微塵も存在していない。

 もっと言えば、どんなに私が彼らを想っても、彼らがこちらを振り返ることはない。彼らには大抵、意中の相手がいる。
 そして、その想い人のことも、私は愛している。
 その2人の関係を、その恋が成就することを、私は心の底から願っているのだ。

 何とも不思議な関係。
 親友と同じ人を好きになったけれど、その親友が結ばれるのを心から願い、喜ぶ…というような感じだろうか。
 いや、学校の中心人物たちの恋愛模様を、面識のない私が、影からそっと見守り続ける、という方がしっくりくる。

 つまり、私の恋は、永遠に報われない片想いなのである。
 触れることも、話すことも、確かな姿形を見て、声を直に聞くことも叶わない。
 どこまでも、どこまでも、一方通行だ。

 だから、ときどき、無性に切なくなることがある。寂しくなることがある。
 私もその世界に入りたい、入れてよ、と思うことがある。

 でも、物語だからこそ、こんなに好きになれるのかもしれない。
 いつまでも、どこまでも信じられるし、たとえ予想と違う動きをしようと、その裏にある何かに考えを巡らせることができる。

 そして、健気に片想いし続ける自分が、結構好きだ。
 だから、私は、これからも物語を愛し続ける。 

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