11/03
溶けたチョコレートを死んだと思ったらいけない、チョコレートは溶けた形でまだそこにあり続けている。形が変わってしまったことを私たちは簡単に喪失の言葉で語ってしまうけれど、目の前にあるものを無いことにしなければそれは別様な形で今もそこにあり続けている。回路が変わってしまうこ
と、それを死に似ない言葉で語るようにならないといけないなと思う。けど、
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2025年は毎日日記を書こうと思っている。Twitterを生活の記録に使えないようにした自分のめんどくささにあきれる。けれど誰かに見せる日記というのはその時点で嘘になってしまうから、日記でもツイートでも外に見せている時点でフィクションであることを避けられない。だけどそれでいいと思う。今この自分にしか書かれないという質感を伴って書いた言葉はそれがフィクションであっても日記として機能しうるのではないかと思う。人は他人の日記を全く上手に書き切ってしまうこともできるし、数日分の日記を後から一日で書くこともできるだろう。だから日記にとって日付はメディアの形式を保つための素材の一つでしかないという直感がある。一つは日付、一つは文量、具体的には長すぎないということ。一つは、それが「私」の視点から書かれ、それが昨日、それ以前の「私」から連続しているという信仰が紙面上(内容や、レイアウトなどすべて含めた表現の場の上)に制作されていること。この三点を満たせば日付はあとからいくらでも変えられるし、「私」が昨日と地続きに今日を生き続けているという信仰が失われればその先はない。
僕は今こうして書いているけれど、その質感や手触りには一貫性がないように思うし、それはきっと私の書く内容についてもそうで、だから私が何を書いているのかについてあまり信用していないのだと思う。ただこれは日記である以上は一日分の長さで書かなければいけないと思うのだけれどもそれができないので困っている。ほんとう、不思議なことにーーー昨日起こった出来事をそのまま今日文章にしても当たり前なことにしかならないくせに人によって違う色の光がついて嘘になるというだけで劇的な今日を生きることになってしまう。まっとうな形にならないのが困る。僕はもう一文ずつ画面からだらだら手が出てくるように冗長に書かれた写真付き日記を信じられないのだろうか。腑に落ちたり落ちなかったりというのは脳がわけの分からぬ切り取りをされた今日という形に合わせてグリッドを広げようとした産物なのかなあと思ってしまうんだ、問題がtweet上ならばそこで不整合は存在しない筈だ、そこにはほかの人の言葉もあるし、と都合のいい解釈をしてーーー2025年はこの日記は書かないようにしようと思います。
「あの」
と声を掛けられて振り返ると知らない人が立っていたので川に向かっていた。川面に向けられる視線を前に急ぐと身体が緊張しようとする。日記の最初の一言をどうすればその先を続けられるか分からなかった。
「日記は今日はお休みでいいんだと思います」
動揺と無縁になった穏やかさの中で冷たい風が頭を通って、僕はひらめきを得て数秒もたついたのだろう。金網に包まれて足の裏で弱々しく砂利は喜んでいるのではないかと思う。長生きを助ける良いおまじないを思いついた日は枯れ葉の踏む音すら僕を喜んでいるということにしているくらいだから、なおさらやっぱり気持ちを縛り過ぎていたことを後悔した。
「あの」
と声を掛けられて振り返ると知らない人が立っていた。「はい」と答えても良かったし、あるいは何も答えなくてもよかったとは思うのだが私はそうはせずただ川面を見つめ続けるという選択をした。
その人は私の前にやはりしゃがみ込み同じ言葉を繰り返すのだった。
「あの
この川はどこから流れています?」
その人がなぜそんなことを尋ねるのだろう?とは不思議に思わなかった「が、しかしそれが何であろうと私が答えるべき質問ではないなと思ったので黙っていることにした。(」)案の定、それは私に向けられた問いではなかったらしく相手はまた自分自身に話し出したのだった。
「鳥の鳴き声がして川を見ることなどここしばらくなかったような、そんな直感を持ったわけですよ」
喋る彼の言葉は使われ続ける布地や靴など贅沢すぎるものに一つずつ縫い付けてあってほしいもののように空気を通されていったけれど、取り越し苦労にしかならないといつも知っている諦めもあるし、願いたいけど願ったりしない人の声だ。いつもなら、曖昧なところに立ち止まる身体を済ますために、よれた身体を数秒流されることに委ねることもある。終わる日を覗き込めば、つまりそれで深く刻まれた夜の私に出会えたのだろうけれど今日はもうよくわからないことが立て続けに起きていて常識を植え込んで花になるまで置いておくための枠を確保しそびれてしまったのだ。喋ったことと全く無関係ではないという念じられた言葉を追い出されてしまったから、僕はその人の声をただ聞くしかなかった。川面から目を逸らさずにいられるということを意味したので良かったととりあえず思うことにした。
「あのこの川は」
その人はまた言った。そして私が答えを持たないまま記憶の話をされることに控えめな居心地の悪さを覚えてるうちにいつもの祭りのような風が彼を連れ去ったので私はその人の声をまた聞くことはなかった。
もしくは、最後に一言だけ聞いた気がする。
「この川は流れていますか」
「知らない」
ーーー
目にまとわりついた梱包材をむしり取ってアンケートの回答表を手に取った。呼吸と同じ周期のリズムを刻む心臓は私よりよほど正直だったと思う。「あなたは彼らについてどう思いますか?」という自由記入の問いに私はこう答えた。
『人間』
夢日記には現実の日付が割り当てられることばかりだけれど、僕は夢の中で数十年も昔を生きているという直感の下そこにいたし、だから団地の前の川はあの時