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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(20)- 李小龍會発足 -

香港李小龍會

1995年5月14日 香港李小龍會正式成立。

事の始まりは1994年秋。私が更に深く香港人となる転機。

街を歩いていた私は報紙檔(新聞スタンド)に龍哥の顔を見つけた。『壹本便利』という雑誌の表紙に龍哥が載っていたのだ。四の五の言わずとにかく買って帰った。

「これから香港に龍哥のファンクラブを作ろうと思っています。参加しようと思う方は下記のフォームに記入して編集部まで送ってください。」とあった。

「日本人女性です。龍哥が好きすぎて荷物全部持って香港に移住してきました。入会希望です。」と書いて送った。

以前にも書いたけれど今回も書いておく。香港人は李小龍のことを「龍哥(ろんご)」と呼ぶ。「龍アニキ」といったニュアンス。日本のファンはえてして龍哥を神格化しがち。だが香港人からすると、龍哥は偉大な功績を残した人物ではあるけれど、神ではなく、自分達と同じ人間でしかも「自己人」であるというベースがあるので、近所の兄ちゃん感覚で「龍哥」と呼ぶ。自分達の歴史と生活に深く根付いた親しい人なのである。

準備委員会のメンバーに

ある日電話が掛かってきた。「日本人」で「女性」で龍哥のために「移住」してきたなんて茶化しじゃないのか、と疑った香港李小龍會準備委員会のスタッフたちが、本当かどうか確認するために直接電話してきたのだった。電話で一言二言話すと、電話の口を塞がないまま大声で「おい!ホンマに日本人女性や!」と周りに言っているのが聞こえた。(その当時はスピーカーフォンなどという機能は無かったからね。)「お前、面白いから committee に入ってくれよ。今度の土曜日に皆で飲茶するからおいで!」ということで晴れて香港李小龍會準備委員会のメンバーとなった。

ここでまた私のリスニング力とボキャブラリーが飛躍的に伸びる。運輸会社の社員として倉庫のスタッフやドライバー達と話したりするけれど、業務的なことが大多数だし、ずっと雑談しているヒマもない。飛び交う粗口(汚い言葉)に慣れていたとはいえ、倉庫スタッフたちも私達女性に対しては当然そういった言葉を使うのは控えてくれる。

ところがこの香港李小龍會準備委員会は若い男性ばかり。私が加入した当初の当初は私が紅一点で唯一の外国人。週に2、3度ミーティングしながら香港李小龍會の正式成立に向けて準備をしているとはいえ、若い男性たちが集まってワイワイ楽しんでいるわけだから、粗口が「飛び交う」どころではなく粗口「どっぷり」の中に普通の単語が顔を出すような喋りっぷり。まだまだこんなにも知らない単語があったのか、私のリスニング力はやっぱりまだまだ甘いんだな、などと思いながら必死でついていく日々だった。

香港人が李小龍を近所の近しい兄ちゃん感覚で「龍哥」と呼ぶことも実はここで知った。委員会メンバーは龍迷繋がりだけだったが実に様々な人がいた。働く業界が皆違う。印刷業界、芸能界、旅行業界、ファッション業界・・・様々な業界の単語も身に付いた。

私は香港李小龍會準備委員会唯一の外国人であり、しかも日本語も英語もできるということで、海外関連業務は全て担当することになった。オフィシャルの文章や会報の翻訳、イベントの際の会場や舞台での通訳の業務も担当する。これまでやってきた社内での通訳・翻訳と違って、いよいよ対外的な通訳・翻訳業務の始まりとなる。(続)

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