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「日本の英語教育は間違っているのか?」に対する私の回答

0. はじめに

「日本の英語教育は間違っているのか?」
これは、今や押しも押されぬ人気ソーシャル経済メディアに成長したNewspicks の番組『THE UPDATE』で、明日1/14(火) 22:00から放送予定のタイトルだ。
私は大学2年生だったNewspicks創業間もない頃からの大ファンで、6年経った今でも毎日Newspicksでニュースや教育記事を読んでいる。
そんなNewspicksが自分が愛する専門領域で特集番組を放映してくれるというのだ!
もうワクワクしてしょうがないので、勝手に出演者になった気分でガチコメントしてみようと思う (約7200字)。

1. 日本の英語教育は「間違っている」

結論として、日本の英語教育は「間違っている」と思う。理由は単純で、結果が満足に出ていないからだ。しかしこれは、「英語を喋れる日本人が少ないから」という短絡的な理由では決してない。実際には、以下に記すような多層的な思考過程がある。そして、英語教育をより良い方向に持っていくためには、英語教育よりも更に俯瞰的な視点から日本の教育を変革する必要があると考える。つまり、日本の英語教育を変えようと思ったら、日本の学校現場そのものを、それこそ丸々ぶっ壊すくらいのつもりで変化させる必要がある、というのが私の主張だ。

2. どのスコープで議論するのか

上記の主張は小学校から高等学校までの学校教育を前提に記述したが、本来は教育といっても色々ある。幼児教育もあれば社会人を対象としたスクールも存在する。また、小学校から高等学校までの学校も多種多様で、例えばイマージョン・プログラムのように習得目標の言語を指導媒介言語として用いて外国語習得を狙う教育形態もある。一口に英語教育といっても、指導対象や指導方法が変われば全く異なる議論をする必要があるのは言うまでもない。ここから始めるとキリがないので、(i) 主に公立を射程とした小学校から高等学校までの学校教育; (ii) 外国語 (今回の場合は英語) の授業以外は原則日本語を用いるカリキュラムを採用した指導環境の2つを満たす条件で議論を始めたい。

3. どのレイヤーで議論するのか

まず、言語教育ないし英語教育と言った時、どの抽象度での話をしようとしているのかに留意する必要がある。つまり、英語教育政策の話をしているのか、それとも学校現場での英語教育の話をしているのかだ。この2つは明確に分けて考える必要がある。何故なら、理想像として記述された理念 (=政策) が教室 (=現場) で成功裏に実践されるとは、必ずしも限らないからだ。これを踏まえて、もう少し「英語教育」と言う議論の対象について具体化させてほしい。同時に、現場での実践が結実しているかどうかも考察しよう。

4. 「英語教育」とは何を指すのか & 現場レベルではどうなのか

「日本の英語教育は間違っているのか?」という問いに回答するためには、「英語教育」とは何を指すのか、そして何を目指すのかを整理する必要がある。概して3つの種類を想定してみよう。

(a) リテラシーとしての「英語教育」
この視点での英語教育は、リンガ・フランカ、つまり世界共通のコミュニケーション言語としての英語の習得を目的とするものだ。この英語教育観において、英語は「役に立つか・立たないか」と言う道具的な眼差しにさらされる。換言すれば、英語教育が正しく機能しているのかどうかは、学習者が英語でコミュニケーションをとれるようになったかどうかで判断されると言うことだ。そしてここで言う「コミュニケーション」は、イデオロギー的にListening/Speakingが重視されがちであることにも留意したい。まとめると、リテラシーとしての「英語教育」の成否はListening/Speaking能力の達成に左右され、これは学習者の内海外生活を考えているであろう層でも通用するかギリギリと言う水準に留まっていることからも、明らかに改善の余地があると言わざるを得ない。ちなみに、各国英語力の比較記事を見る際にはデータの信憑性に相当程度の注意を要することに留意したい。さらにちなみに、英語を国際共通語と見なす姿勢も、結局イデオロギーの産物なのである (この辺りはAlastair Pennycookや久保田竜子先生の著作に詳しい)。

(b) 知的訓練としての「英語教育」
リテラシーとしての「英語教育」以外にも、英語教育には重要な役割がある。それは、「メタ言語能力」を培うことだ。メタ言語能力とは、典型的には「言語について思考し、説明する能力」とされることが多いが、峯村勝氏の『英語教育の基本問題』に拠ればもう少し広い定義がなされている。その前半部分は、知的訓練としての「英語教育」といえるだろう。この視点での英語教育は、言語学習を通じての論理的分析能力の向上を目的としており、外国語の一例としての英語の音声・文字・語彙・文法・表現について観察・考察したり日本語と比較したりする中で総合的な認知能力を涵養することを目指す。故 渡部昇一氏が取った立場もこれに近いだろう。もっとも、そんな思考訓練と最低限のリテラシーたる「潜在力」(渡部氏の言葉) の習得成果も、平泉渉氏の認識の方が正鵠を射ていると言わざるを得ないのは皮肉だ。つまり、知的訓練としての「英語教育」も、正確なReadingや対日英訳ができる人材は限定的であることから部分的な成功に留まっていると認識するのが妥当だろう。

(c) 文化・民族・国際社会教育としての「英語教育」
先述の峯村氏の定義する「メタ言語能力」の後半部分に当たるのが、文化・民族・国際社会教育としての「英語教育」とまとめ得るものだ。この視点での英語教育は、異質な存在、つまり非日本的な存在ないしそうした価値観が世界にあることを知り、それらとどう平和的に共存していくのかを考え追求することを目的とする。また、こうした活動を通して「日本」なるものを客観視することも含まれるだろう。この英語教育観では英語は「海外」「異文化」への窓口として扱われ、多様性教育の題材として用いられる。したがって、周囲に存在する多様な人々や価値観と調和的にコミュニケーションできる姿勢や方略的技能を備えることが、この英語教育が正しく機能しているのかどうかのものさしになると言える。これに関しては、多文化コミュニケーションに関心を持つ学生が一定数存在しているだけにある一面では成功していると言えるかもしれない。しかし、(i) 多様な他者との「違い」を前提としたコミュニケーションが広まってしまっていること (e.g., 国籍や言語ごとに固定化されたコミュニケーションマナーの思い込み) ; (ii) 身近に存在する多様性を見落としていること (e.g., 日本は均質な単一民族国家だという思い込み) などからも、直近の社会言語学で支持される多文化コミュニケーションの形態とは大きく異なっている。特に(ii)に関して言えば、日本に暮らす帰国子女の苦悩は学術論文を含め多くの記事が指摘するところだ。これでは多文化コミュニケーションへの関心を醸成できたとしても、誤った形での「成功」だと言わざるを得ない。

ここまで3つの「英語教育」を想定し現場の実践の成果を考察してみた。結果として、「正しい」英語教育が必ず実を結ぶものだと仮定するならば、残念ながら、現行のそれは「間違っている」と評する他にないだろう。

5. 政策レベルではどうなのか

それでは、現場の教育実践を規定する学習指導要領はどうなっているのか。平成 29年告示の中学校学習指導要領から、一部引用してみよう。

[...] 外国語教育の特質に応じた,生徒が物事を捉え,思考する「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」を働かせ,外国語による「聞くこと」,「読むこと」,「話すこと」及び「書くこと」の言語活動を通して簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりするコ ミュニケーションを図るために必要な「知識及び技能」,「思考力,判断力, 表現力等」,「学びに向かう力,人間性等」の資質・能力を更に育成することを目指して改善を図った [...] (p. 6)

この内「知識及び技能」を「リテラシー」、「思考力,判断力, 表現力等」を「知的訓練」、そして「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」「学びに向かう力,人間性等」を「文化・民族・国際社会教育」と読み替えれば、政策レベルでは必要な要素は全て揃っていると言える。

加えて、学習指導要領は政財界の意向を十分に反映していることにも留意したい。2000年に『経団連意見書: グローバル化時代の人材育成について』や『日本のフロンティアは日本の中にある: 自立と協治で築く新世紀』といった提言が次々となされ日本人の英語能力並びにコミュニケーション能力の必要性が強調されたが、これを受けて2009年に改定された学習指導要領では既に英語の授業は英語で行うことを原則とする記述がなされている。

つまり、政策レベルでは求められる改革はもう概ね盛り込まれているのだ (もちろん完璧というつもりはないが)。まさに『THE UPDATE: 2020年は日本滅亡元年か?繁栄元年か?』で夏野剛氏が仰った、「この30年で仕組みは変わったが、それに合わせて人のシステムを変えて来なかった」という状況なのである。従って、日本の英語教育を思い描いた「正しい」方向性に導くポイントは、政策ではなく現場にある。

6. 現場は何故、学習指導要領を実践できないのか

それでは何故、学校教育現場は満足のいく結果を生み出すための実践を遍く行うことができないのだろうか。その理由を示唆する興味深い研究が、2004年にKeiko Sakui氏によってまとめられている。この論文により、下記のような課題が浮かび上がった。

・現場の先生方は生徒の指導に非常に熱心であり、CLT (Communicative Language Teaching) の重要性も理解している
・しかし、現実には文法訳読式の内容とCLTの要素を含む内容を調和的に統合した授業は達成できておらず、実際は受験のための真剣な文法訳読パートと単純なお楽しみとしてのCLTという二分が起こってしまっている。また、CLTをAudiolingualism (i.e., センテンスの正しい発音/産出を目的とした指導主義) と混同している場合もあった
・こうした問題の背景には、先生方の (i) 限定的な英語能力; (ii) 限定的な授業準備時間; (iii) 限定的な自己研鑽時間といった原因がある
・結果として、CLTは「いつか誰かが」という議論になってしまっている

つまり、現場の先生方は現状の英語教育の問題を十分認識し大まかな改善方針を認知しているが、具体的な実践方法がわからないし、それを実現する十全なスキルも備えていない。加えて、それらを身につけ授業計画に落とし込もうにも、そうするための時間と体力を捻出することができないのだ。

実践方法やスキルを学ぶ機会はすでに提供されている。例えば、Benesseと上智大学は、毎年最新の研究結果と実践方法の双方を学べるシンポジウムを開催しているし、学術論文は誰でもアクセス可能だ。けれども、機会の問題ではない。先生方にはそんな機会にアクセスする余裕がないのである。ここから、下記の示唆が生まれる。

ボーリングでは、センターピンを倒せば後ろにある残りのピンは全て倒れていく。これに擬えれば、英語教育のセンターピンは英語教育の中にはない。むしろ、もっと広義の「教育」「学校」といった根元の中にこそそれを見出すべきなのではないだろうか。具体的には、「学校労働環境の改善」である。

7. 学校労働環境をどう変えるのか

現場で働く先生方の劣悪な労働環境が世に知られて久しい。結果として、教員人気の低下が目に見えて始まっている。この流れを変えて先生方が最新の効果的な教科指導の準備・実践とそのための自己研鑽に専念できるようにするためには、何が必要なのだろうか。私なりに5つの提案を試みてみたい。

(a) 教員業務の仕分けとアウトソーシング
教員とは、教科指導のプロである。プロフェッションに関係ない業務は外に切り出し、学校内外の人材にアウトソーシングするのが良いだろう。例えば、部活動の指導を外部コーチに委ねることができれば、平日夕方や週末の時間を授業準備や研究に使うことができる。

(b) 学級/担任制の廃止
(a)を徹底するために必要なのが、学級ないし担任制の廃止だ。先生方は、担任するクラスの生徒マネージメントにかなりの時間と労力を割いている。クラスというものがそもそも存在しなければ、担任業務が生まれることもない。大学の授業と同様に授業ごとに教室移動をすれば良い (ちなみに、これによりいじめや不登校の改善も期待できるのではないだろうか)。

(c) IT化
紙で行っている非効率な業務や不要な会議は、デジタルツールを使用することである程度削減できると思われる。また、(b)を成立させるためにも、ポータルサイトなどを用いて、学校単位や授業単位で情報やメッセージの授受をできる仕組みを作ることが必要だ。

(d) 自由闊達な議論ができる学校文化の醸成
年次が上の先生の意見がそのまま学校/学年の指導方針になってしまうケースが散見されるようだ。事実、私の大学院時代の同僚にも、せっかく学んだ理論やメソッドを使わせてもらえない者が幾人もいた。しかし、本来若手教員こそ最新の学説や研究に最も詳しいはずである。彼らも自由に意見を発しながら教員全体で最適解を練り上げられるディスカッション文化を作れることが望ましい。

(e) インセンティブ設計
現状、最新の理論を学びチームに共有したり、効果的な実践をして成果を上げたりした教員へのインセンティブが設計されている事例は少ない。しかし、貢献度が高く成果を出した人は評価されて然るべきである。公務員では給与での差別化は難しいかもしれないが、何らかの仕組みを作れることが理想的だろう。

以上5点が私の提案である。これらが実現することで、現在の一部教員のやる気と自己犠牲に依存した各校/各クラスの実践アップデートが改善することを願う。

8. これからの「正しい」英語教育を考えるために

これまでの英語教育が、これからも通用するとは限らないし、まして効果的であり続けるかどうかは分からない。今後の「正しい」英語教育を考えるにあたって、3つの観点を提供したい。

(a) 「英語」とは
「英語」教育というが、「英語」とは何なのだろうか。いわゆる「ネイティブスピーカー」は学術的には定義できないし、強引に用いても、例えば「アメリカ英語」と言われるバラエティだけで優に20を超える。加えて、現代では英語を第一言語とする話者よりも第二言語として用いる話者の数の方が圧倒的に多い。この状況下で、我々が教室で用いるべき英語とはどのようなモデルが適切なのだろうか。「日本語英語」といっても未だ画一的なモデルはないし、様々なバラエティのものをと言っても、それではどのように語彙文法や発音を教授するのかは非常に悩ましい。また、どこまで文法的な逸脱を許容するのかについても、各教師の主観的な採点が許されるのかなど問題は残る。この点は間違いなくディスカッションが必要だ。

(b)教育モデル
いわゆる典型的な日本の英語教育で想像されるような、教室で先生が一方的に文法や英文和訳を説明する授業は確実に転換期を迎えている。では、今後はどうするのが良いのだろうか。CLIL (Content and Language Integrated Learning)やTBLT (Task-based Language Teaching)、映像授業を駆使した反転授業が大勢の主張だと思われるが、実際はどうだろうか。また、これが実現して教師の役割がファシリテーターやコンサルタント的になっていったとき、どうスキル面でキャッチアップしていくのか。こうしたトピックも議論が必要だろう。

(c) 民間の知見の統合
現在、第二言語習得研究や応用言語学の知見を生かして短期的に成果を上げる民間企業が生まれ始めている。これら「パーソナルコーチング」と呼ばれる業界の知見をどう公教育に活かしていくのかも、検討する価値がある。まずは学術研究のトレンドが学校教育における集団授業に偏っている状況を見直し、民間で生まれた新しい教育形態を対象にした学術論文が生まれることを期待したい。

9. 結びに

ここまで、「日本の英語教育は間違っているのか?」に対する私の回答と提言を記してきた。けれども、最後にどんでん返しをするようだが、教育手法を「正しい」「間違っている」という絶対的価値観や二元論で画一的に論じること自体が近代的で科学パラダイムとしては一昔前の考え方である。絶対に「正しい」あるいは「間違っている」手法など存在しない。同じ英語という言語学習の中でも、生徒さんにとっては得意・不得意な分野があり、しかもそれは一人ひとりの生徒さんによって異なる。重要なのは、学習指導要領に示されているような大局観には沿いつつも、目の前の生徒さんにとってどんな指導方法が効果的なのかを見極め実践できる、柔軟性と専門性が、先生方に備わっているか否かだ。そしてこの場合でも、先生方のSelf-developmentをサポートできる学校労働環境が整備されているかが、結局問われてくるのである。

さて、明日の『THE UPDATE』でどんな議論が行われるのか、非常に楽しみだ。

p.s.
Newspicksのプラットフォームで
>「現場の教員がダメなのだ」という論調に収斂してしまっています
という批判をいただきました。
もし皆さんにもこのような読後感を残してしまっていたとしたら、申し訳ないです。
現場の先生方は非常に一生懸命でできることはやり尽くしていらっしゃることは重々承知しておりますし、尊敬しております。
むしろ、そんな先生方を取り巻く環境こそに根源的な問題があるというのが私の課題意識です。
今活躍されている先生方への敬意を発信するための原稿でもありましたので、この場を借りて補足させていただきます。

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