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無知な教師、知性の平等、真理の話法について——ランシエール『無知な教師:知性の解放について』を読む

この実験は物事をはっきりとさせるに十分なものであると彼には思われた。生徒を解放すれば、つまり生徒自身の知性を用いるように強いれば、自分の知らないことを教えられるのだ。教師とは、知性が己自身にとって欠くことのできないものとならなければ出られないような任意の円環に、知性を閉じ込める者なのである。無知な者を解放するには、自分自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していることが必要であり、またそれで十分なのだ。無知な者は、教師が彼にはそれができると信じ、彼が自分の能力を発揮するように強いれば、教師が知らないことを独りで習得できる。これは能力の円環であり、生徒を古い教育法(メソッド)(以後単に「旧式」と呼ぶ)の説明家に結びつける無能力の円環に対応するものである。だが力関係はいたって特殊なものだ。無能力の円環は常にすでに存在する。それは無知と知との明白な相違のなかに潜む、世の中の歩みそのものなのだ。一方能力の円環は、その公開性によってしか実効性を持ちえない。だが、それが公開的に現れることができるのは、同語反復ないしは不条理としてでしかない。知っていること同様知らないことも教えられるなどと、どうして学識ある教師が聞き入れることができるだろう。彼はこの知的な能力の増大を、自分の学識の価値の喪失としか受け取らないだろう。また無知な者は無知な者で、自分に独力で学ぶ能力があるとは思っていないし、まして他の無知な者を教育する能力があるなどとはなおのこと思っていない。知性の世界から排除されている者たちは、自分たちを排除する評決に自分たち自身で賛同してしまっているのだ。要するに、解放の円環は開始されなければならない。

ジャック・ランシエール『無知な教師:知性の解放について』法政大学出版局, 2011. p.22-23.(太字は原著では傍点)

ジャック・ランシエール(Jacques Rancière、1940- )はフランスの哲学者。パリ第8大学名誉教授。旧フランス領アルジェリアのアルジェ出身。高等師範学校で哲学を学ぶ。ルイ・アルチュセールの薫陶を受け、1965年にはエティエンヌ・バリバールらとともに『資本論を読む』の執筆にも参加したが、その後急速に距離を取るようになった。自著『アルチュセールの教え』(1974年)でアルチュセール思想を厳しく批判した。

本書『無知な教師:知性の解放について』は1987年の著作であり、伝統的な教育学の基礎に対して19世紀初頭という時期に根本的疑義を唱えた型破りな人物ジョゼフ・ジャコトの研究から生まれた書物である。しかしこの書物は単に一風変わった教育論をめぐるだけのものではない。ジャコトという一人の教師の知的冒険を物語るこの書物は、同時に知的冒険いっぱんについての、すなわち思考一般についての書物でもある。その意味ではまぎれもなく哲学的な書物なのである。

ジャコトが知的冒険をはじめたのは次のような偶然の出来事からだった。亡命先のルーヴェンで、オランダ語を話すことができないために、やむなく『テレマックの冒険』の対訳本だけを生徒たちに手渡し、それをもとに自分たちでフランス語を学ぶようにさせたところ、生徒たちは見事にやってのけたのである。この偶然の経験はジャコトにあることを自覚させる。それは「生徒を解放すれば、つまり生徒自身の知性を用いるように強いれば、自分の知らないことを教えられる」のではないかということだった。ここから帰結するのは、生徒たちを真の学びに導くのは博識な教師ではなく「無知な教師」であるということである。しかしそれは本当だろうか?

伝統的な教育法に従う教師たちは生徒たちを「無能力の円環」に閉じ込めているとジャコト=ランシエールは考える。教師は知の側に立ち、生徒は無知の側に立っており、その溝は教師によってしか超えらえることはないという円環である。一方、「無知な教師」は生徒たちを「能力の円環」に閉じ込める。しかし、この円環は開放的な性格をもつ。生徒たちは教師なしに学ぶことができること気づき、自ら学ぶことによってこの円環から脱するのである。また、無知な者を解放するには教師自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していることが重要である。無知な者は、教師が彼にはそれができると信じ、彼が自分の能力を発揮するように強いれば、教師が知らないことを独りで習得できる。

「人は説明する教師なしに何かを学ぶことができる」という可能性は、ジャコトに「知性の平等」という根拠を与えた。無知な教師によって生徒に課される強制が、知性の平等へと至る契機となる。自分たち自身の力で抜け出すことができる「能力の円環」の中に閉じ込められることで、生徒は不可能なものの可能性、それまで自分には存在しないと思っていたものの存在、すなわち自らの知性を、認識するようにしむけられる。そして、普遍的教育(教師なしの学習)の訓練のすべては、この明かされた知性を、「知性の平等」の原則のもとに確認していくことなのである。

知性が平等であるなら、人は自分の知らないことを教えることができる。ここでは「平等」が、それに近づくための手段を次々と発明していかなかければならないような目的とはなっていない。それは宣言すべき出発点であり、思考はその帰結の展開である。原則を、真理を表明する命題とすることが思考なのではない。原則から導き出される諸帰結を展開し、原則が確かめられる事例を構築することが思考なのである。

ここからジャコト=ランシエールの議論は「真理」の話法とは何か、それと「知性の平等」の関係性に行きつく。真理は、知性の平等という臆見的前提のうえに築かれる真理である。そこでは「真摯さ」という主観的態度が必要となる。ジャコトは「真理は在るものであり、言われるものではない」と考える。真理は、それを確認するためのさまざまな言表や行為を誘発するが、一つの命題によって言い表されることはない。真理は新たな知の汲み尽くしようのない源なのであって、一つの言表の価値には還元されないのである。したがって、真理の反対は偽ではない。偽は、ただあれことの言表について言われるだけである。真理の反対は、真摯さの軌道から逸れること、あるいはそれを妨げること、すなわち不注意である

真理と不注意は、それぞれ特有の言語体制をもっている。ジャコトは真理のまわりに描かれる真摯さの軌道が発する言語体制を「詩学」と呼び、不注意の言語体制を「修辞」と呼ぶ。詩的な言語は、真理の前提のもとに、そこから推論される諸帰結を、真摯さの原則に基づいて展開する論証の言語である。その論証が、その真摯さにおいて表現しているものが、もう一人の理性的存在によって推し量られ、理解されて、また新たな知的冒険、その特異な軌道を生み出すからである。一方、修辞は、他の知性に理解されるためではなく、他者を黙らせるための話法である。修辞は、語る存在の詩的条件に反逆する話法である。修辞は口を閉ざさせるために話す。「お前はこれ以上話すな、これ以上考えるな、これこれをせよ」というのが修辞のプログラムである。そして修辞のプログラムを学ぶことは、思考することよりもずっと簡単なのである。これらはすべて、知性の不平等の話法である。だから、思考を検証したければ、その論証が不注意なものとなっていないかどうか、見たもの、読んだものを、見ていないあるいは読んでいないことにしていないか、あるいは見ていないこと、読んでいないことを、見たあるいは読んだことにしていないかを、「無知な教師」のやり方で確かめていく必要があるのである。


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