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「あらゆる欲動は死の欲動である」——ラカンの「箔片/オムレット」としてのリビード

フロイトにおいて「死の欲動」は、形而上学的な含みをもって語られる概念であった。フロイトは自ら「思弁的な議論」に足を踏み入れていることを自覚しながら、次のような議論を展開した。すなわち、有性生殖を行い、他の性を欲望する生命体は、自らのうちに本質的な欠如を抱えている。プラトンの『饗宴』で語られるアリストパネスのアンドロギュノス(両性具有)の神話を例にして、ラカンは自らの半身を求めてさまよう欲動を語る。両性具有の完全体から分かれた「男/女」は、欠如を埋めるために他の性を求めるのである。欠如を埋めるために他を求める欲動がリビードだとすれば、欠如の根源的な消失を希求する欲動が死の欲動である。「あらゆる欲動はより以前のものに立ち返ろうとする」(Freud ⅩⅢ, 39)が、その「保守的な欲動」は性が分化する以前の状態への回帰、すなわち死を目指すとされるのである。フロイトはこうして欠如を解消しようとすることにおいて、より根源的な死の欲動を「あらゆる欲動」の根底にあるものとみなしたのである。
こうしたフロイトの議論を受けて、ラカンもまた「欲動、すなわち部分欲動は本質的に〔foncièrement〕死の欲動である」(S-ⅩⅠ, 187/二七四)とする。ラカンはフロイトの議論をほぼそのままなぞりながら、「欠如」の根源的な解消を求める死の欲動を、すべての欲動の根底にあるものとみなすのである。

荒谷大輔『ラカンの哲学——哲学の実践としての精神分析』講談社, 2018. p.178

ジャック=マリー=エミール・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901 - 1981)は、フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。後期では「フロイトの大義派(École de la Cause freudienne)」を立ち上げた。20年以上にわたりセミネール(セミナー)を開き、「対象a」「大文字の他者」「鏡像段階」「現実界」「象徴界」「想像界」「シェーマL」などの独自の概念群を利用しつつ、自己の理論を発展させた。参加者には、ラカン派の臨床家だけでなく、ジャン・イポリット(哲学者、ヘーゲルの専門家)、フランソワ・ヴァール(フランス語版)(スイユ社編集者)などもいた。

本書『ラカンの哲学——哲学の実践としての精神分析』は、哲学・倫理学者の荒谷大輔氏(現・慶應義塾大学文学部教授)が、精神分析家であり哲学者でもあったラカンの著作を、哲学の原点に立ち返りテクストを読み込むという手続きによって、ラカンの思想を読み解くことを試みた書籍である。

冒頭に引用したのは、中期のパリ・フロイト派を立ち上げた頃からの1963〜70年の思想について解説した部分の一部である。当初はサンタンヌ病院、後にエコール・ノルマルの講堂において長年続けられた「セミネール」において、ラカンはユングを意識しながら、自らの理論が性的な事柄を扱っていることを強調している。リビード概念を中性化したユングを強く批判したラカンの性の理論は、「性」として語られる事柄をシニフィアンの構造に帰するものとなっている。それが「無意識はランガージュとして構造化されている」というラカンの定式である。

ラカンは性を考える上での重要な契機として「性的分割」を挙げる。性的分割とは、すなわち「男性」と「女性」という性に分かれることを意味する。男性と女性に分かれるということが、性的に互いに惹かれ合うことの条件になっている、とラカンは言う。ここでのラカンの主張は、「男性」と「女性」といったものは「象徴的なもの」の中に自己が位置づけられることで割り与えられるものにすぎない、ということである。例として挙げられるのはダフニスとクロエの物語である。山羊や羊によって育てられたダフニスとクロエは、互いに対する性愛的な感情を、老婆の言葉を媒介にして初めて獲得するのであった。ダフニスが「男」としてクロエを性的な対象とみなし、クロエが「女」としてダフニスに興味をもつためには、それを言語の秩序の中で意味づける老婆の存在が不可欠だ、とラカンは言う。「無垢な者」の欲動の道行きに、老婆=大他者が介入することで初めて、彼らは「男/女」として互いを求めることができる、とラカンは言うのである。

ラカンは、こうしてフロイトが基本概念として措定した欲動に則して、エディプス・コンプレックスの過程自体を練り直したと言える。ラカンの場合、性の欲動(リビード)としての根源的な欲動は、より普遍的な「死の欲動」という概念に包摂される。フロイトにおいては、両性具有(アンドロギュノス)の完全体から分かれた「男/女」が、欠如を埋めるために他の性を求めるような欲動がリビードだとされた。欠如を埋めるために他を求める欲動がリビードだとすれば、欠如の根源的な消失を希求する欲動が「死の欲動」である。「死の欲動」自体はすでにフロイトにおいて定式化されており、「あらゆる欲動はより以前のものに立ち返ろうとする」とフロイトは語った。ラカンはそれを受けて、「欲動、すなわち部分欲動は本質的に死の欲動である」とする。「欠如」の根源的な解消を求める死の欲動を、すべての欲動の根底にあるものとみなすのである。

性の欲動(リビード)と死の欲動の違いは、ラカンにおいては明瞭なものとなっている。性の欲動は、「半身」に規定されたままの状態で欠如の補填を求めるものであり、ラカンのいう「象徴的なもの」にとらわれたまま、その枠組みの中で欠如の補填を追求するものを意味する。他方、死の欲動は満足のために構造自体を破壊し、構造を変容させる契機を持っているのである。「あらゆる欲動は死の欲動である」というように、死の欲動は満足を求めて、構造自体を変えていく可能性を持つ。したがって、ラカンにおいてはフロイトにおけるリビード概念は異なる定義づけをされることになる。ラカンはリビードを「ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうもの」と定義する。すなわち、リビードはシニフィアンの秩序に従うことにおいて外部に排斥されるものを意味することになる。ラカンがそこでリビード概念に割り当てる機能は、むしろ死の欲動に準拠するものになっている。リビードには「箔片(lamelle)」あるいは「オムレット(hommelette)」というイメージが与えられる。アリストファネスにおける両性具有の球体が割られることでオムレットができるわけである。このイメージによって与えられるのは、欠如の補填を求めてさまよう原初生命体の姿である。この「箔片」としてのリビードは、シニフィアンの秩序から排除され、「実在しないという特性をもち」、人間が「静かに眠っている間にやって来て、顔を覆う」のである。リビードは「死をもたらす意味」をもっており、「それゆえにこそ、すべての欲動は潜在的に死の欲動なのである」と言われる。ラカンにおけるリビードは、フロイトのように死の欲動に対置されるものではなく、むしろそれ自身において「快原理の彼岸」を含むものとみなされるのである。


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