見出し画像

私たちは「意志教」の信者である——國分功一郎氏『はじめてのスピノザ』より

意志の話をしましたので、最後に少し現代社会について考えておきたいと思います。というのも、現代ほど「意志」「意思決定」「選択」というものが盛んに言われる時代も珍しいと思われるからです。
意志を巡る現代社会の論法というのは次のようなものです。——これだけ選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、あなたが自分の意志で決められたのがこれです。ご自身の意志で選択されたことですから、その責任はあなたにあります。
この論法が全く疑われないわけですから、純粋な自発性としての意志など存在しえないという、ちょっと考えれば分かることですら共有されません。
このように意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。
意志というのは、先にも述べました通り、「無からの創造」です。それは合理的に説明ができないものです。その合理的には説明ができないものを誰もが信じて疑わない。現代社会はある意味で、「意志教」のようなものを信仰しているのではないでしょうか。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書, 2020. p.124-125.

スピノザの哲学については、昨日の記事で『神学・政治論』を中心に紹介した。本書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』は、スピノザの主著である『エチカ』について、なぜスピノザは人間には自由意志がないと考えたのか、自由とは何か、意志とは何かといった問題を、スピノザの哲学にそって、哲学者の國分功一郎氏が解説している本である。

まず、スピノザの考える「自由」について。ふつう私たちは「自由」というと「束縛がない」という意味で使う。しかし、スピノザは違う。制約がないだけでは自由とは言えない。そもそも全く制約がないことなどありえない。私たちには常にある条件・制約が与えられている。自分に与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること、それこそがスピノザの考える自由の状態である。

スピノザは『エチカ』の冒頭で、「自己の本性の必然性によって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由である」と述べている。この定義のポイントは二つある。一つは、必然性に従うことが自由だということ。ここでいう「必然性」とは、その人に与えられる身体や精神の条件であると考えることができる。その必然的な法則にうまく従い、それを生かすことができているときに、私たちは「自由」である。つまり、私たちは生まれながらに自由なのではなく、少しずつ実験しながら学んでいくことによって自由になっていくのである。
ポイントの二つ目は、自由の反対が「強制」であることである。強制とはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられた状態である。その人に与えられた条件は、その人の「本質」に結びついている。ここでいう本質とはスピノザが定義する用語であり、形相(エイドス)によらない、神の実体の一様態としてのものをさす。強制とは、その人の「本質」が踏みにじられている状態、あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されている状態といえる。自由の反対語は「強制」とスピノザは考える。

スピノザの自由の概念は、「原因」という概念と結びついている。不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることである。ならば、自由であるとは、自分が原因になることでもある。人は自由であるとき、また能動でもあることになる。どうすれば人間は自由になれるかという問いは、人間はどうすれば能動的になれるかという問いに置き換えることができる。しかし私たちは完全に能動的になることはできない。完全に能動であるのは、自らの外部をもたない神だけだからだ。私たちは、完全な自由を求めるのではなく、自由の度合いを高めること、つまり受動の度合いを減らし、能動の度合いを高めることはできるのである。「自由」な状態とは、私たちが自身の置かれた条件のもとで、能動の度合いを高めた状態と言い換えることができる。

そしてスピノザのいう自由とは「自発性」のことではない。自発的であるとは、何ものからも影響も命令もうけずに、自分が純粋な出発点となって何ごとかをなすことをいう。つまり、自己が原因になる状態である。そのような自発性は神しかもっていない。神は自己原因であるが、人間は常に外部の原因に左右される受動性をもつ。この「自発性」のことを哲学では一般に「自由意志」と呼ぶ。つまり、スピノザは人間には自発性がない(自己原因となることはない)という意味で「自由意志はない」と述べているのである

私たちは自由の話をすると、すぐに「意志の自由」のことを考えてしまう、とハンナ・アレントは指摘している(「自由とは何か」『過去と未来の間』みすず書房)。人間には自由な「意志」があって、その意志にもとづいて行動することが自由だと思ってしまうのである。しかし、自己原因=純粋な出発点としての自由意志は人間はもっていない。人間は常に外部からの影響と刺激のなかにあるからである。つまり、人間の行為は多くの原因をもつのであり、行為は多元的に決定されている。人間の意識もそこにある程度関与するが、それが一意的に行為を決定することはありえないのである

國分功一郎氏は、アレントを引用しながら、現代の「自由」とは、すなわち「意志の自由」をすぐに意味するような風潮があり、そして現代社会は「意志」をとてつもなく重視する社会となっていることに批判の目を向ける。私たちの行為は、私たちの「意志」だけで決まるものではない。日常生活の行為においてもそれは言えるが、例えば依存症患者や犯罪をおかす者たちにも同様のことがいえる。しかし現代では、そうした行為についても、本人の自由意志の結果とみなし、意思決定をくだした本人の責任を過剰に責め立てるような社会になっている。こうした風潮に、國分氏は何か信仰のようなものを感じるという。(自由)意志というものは「無からの創造」であるにもかかわらず、その合理的に説明できないものを皆が信じている。それはあたかも「意志教」のようなものを皆が信仰しているのではないか、と國分氏は感じているのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?