ナチスって何?とかいう人が増えているみたいだ。学校で教えろ?いや、もしかしたら、人に必要なのは教育じゃなくて物語なんじゃないだろうか?


私は歴史に詳しいわけなじゃいんですが。

ツイッターとかみていると、私が普通になんとなく知っていることを全く知らないという人たちが多いのに気づく。ナチスとヒトラーについてもそうだ。人道に反する行為をした政治団体であり人物である、という知見がまったく欠けている。


■学校で教えるべきだ?

なぜ学校で教えないのか、というのが普通の反応かもしれない。だが、私がナチスのしたことを少なくても知っているのは、授業で習ったからではない。

樹村みのりさんの「解放の最初の日」という作品が、私にとっての「ナチス」初体験だった。作品は、強制収容所でドイツの協力者となりそのことで生き延びることができた男性の物語だ。解放の最初の日、彼は自分に問う「なぜあなたは生き延びたのですか」という問いに自分はどうこたえるのか、と。ただの被害者ではありえない彼の心中が察せられて、忘れられない作品だ。

画像1

樹村みのりさんは、アウシュビッツを尋ねた東欧への旅を描いた作品で、ご自身が言っているように「収容所のことしか考えていない」という方です。また、彼女は、自分の権力を使ってお気に入りの囚人と懇意になろうとする収容所の監視官を主人公にした作品も描いており、虐待された側だけに思いを寄せているのではないことが、それをみてもわかります。どれも、自分を凝視することで生まれる厳しい作品群です。

自分の狡さや弱さをいかに逃さずに見つめるか、彼女の作品が私に提示したテーマはそれでした。

ただ、ナチスのプロパガンダや収容所でどれくらいの人々が虐殺されたかを知れば終わりという話ではないのです。


■教育には限界があるんじゃないかな

たぶん、授業で習ったとしても、あ、習った、で終わる可能性があります。

知らなくても不便はない「情報」です。とにかく自分が生きるために必要でもない、試験には出ないし。

そうなんですよ。

授業だと「物語」じゃなくて「情報」になっちゃう。その後ろに人はいないんです。有益な情報か無益な情報か、そういう判断しかされなくなっちゃう。


そんなわけで。幼い頃おばあちゃんから聞いたような、オチも教訓もない「物語」が、人には必要なんじゃないかって私は思ってるんです。なぜ、教訓やオチがあってはいけないのかっていうと。それは、それこそが、聴いた私たちが、それぞれに導き出さなければならないものだからです。

だから、答えをその場でださないとならない「教育」じゃダメなんです。

今回、私がようやっと樹村さんの物語から私なりの「答え」を導き出しました。40年かかりましたけど、ね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?