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喪失感よ、こんにちは。(沖縄・久高島巡礼記)

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喪失感を漂わせている人ほど、無口であっても人見知りだったとしても、異性から恋愛の対象としてアプローチを受けやすい。たぶんそれは、他人の“無”を自分の“有”で埋めたがる人間の性(さが)なのかもしれない。

けれども、身に纏った自分の喪失感に気が付かない人ほど孤独に陥る。それは、癒されないまま放置された喪失感はやがて“聖域”というバリアに変わり、無礼に立ち入られることを極度に嫌うからである。

しかし、誰でも心のなかに埋めたくても埋められない何かを抱えて生きている。その抱えた“何か”が深い人ほど笑顔が眩しいくらい美しかったりもする。だから人は見た目だけでは何も分からない。何も分からないからこそ、人は大胆に惹かれ合い、慎重に別れるタイミングを模索したりするのだ。

何かを失うほど、人はありのままの自分を手に入れことができる。そして、自我との付き合いに疲れ、やがて自分という存在自体が宇宙からの“借り物”であると気付いたとき、初めて我々は地に足着いた人生を歩み始めることが可能になる。

人は天と地を結ぶという“役割”を担わされた尊い存在ではあるのだが、その役割の実体や意味というものは言葉や文字だけでは伝承することができない。だから、人は人を必要とし、愛や絆といった非言語的な結びつきを放棄した者は一生、昼と夜を彷徨い続けることになるのかもしれない。

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先日、わたしは沖縄本島から高速船で15分ほどのところにある久高島という地を訪れた。通称・神の島と呼ばれるこの地は琉球王国時代から神聖な場所と崇められ、1879年の明治政府による琉球処分以降も島民によってその当時の祭祀がすべてではないが、いまでも続けられている。

この島には何も無い。ほんと何も無い。何も無いからいいのである。鳥居も無ければ立派な社も無い。神の島ではあるが、神はいない。神は神職に任命された島の女性によって呼ばれて来るのだ。

ガイドをしてくださった西銘さんによると、この島では昔から男性は女性に守られる存在であると考えられていたとのこと。たぶん、昔の人は男女が“対”になるということは、お互いが歩み寄ることではなく、一方が包み込むことで成り立つと考えていたのではないかとわたしは想像する。夫婦の関係に関わらず、狭い島のなかで人と人とが衝突を生みだすことなく平穏に暮らしていくための知恵であったに違いない。

あまりにも無知な状態で島に行ってしまったわたしは、西銘さんの話の記憶が抜けないうちにと那覇市内の大型書店に駆け込み、久高島に関する書籍を一冊購入した。12年に一度、イザイホーと呼ばれる久高島で生まれ育った30歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための就任儀礼が行われていたのだが、1978年を最後にそれが途絶えてしまっていることをあとから知った。その就任儀礼が途絶えている理由は、新たな神女となる女性の不在や祭祀の実質的なリーダーを勤めた女性の逝去によるものだという。

この島のことを調べれば調べるほど、太陽の光が降り注ぐ炎天下のなか、何も無い島でわたしが自分のなかに感じていた心の隙間の輪郭がぼんやりと浮かんでくるのである。

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人は自分に足りないものや失ってしまったものを、他人を通じて知らされていることにあまり気付いていない。ピュアなこころを失った人たちは、それを自分のなかに取り戻そうとはせず、なぜかピュアな人たちを口撃することでその存在自体を消そうと躍起になる。

我々が招待されたこの宇宙が「完全性」と「平等性」をもとに作られていると理解できたとき、人は初めて自分の存在をこころの底から愛せるようになる。たとえどんなに、いまこの瞬間苦しい状況に置かれていたとしても、そこには偶然性も必然性もなく、ただただひたすら自分と自分を取り巻く関係性のみが存在しているだけである。

その関係性が複雑であるほど、じつは苦しみよりも癒しの力によってあなたは守られている。久高島へ渡る直前、わたしは斎場御嶽(せいふぁーうたき)という聖地で、ある啓示を受け取ったのである。その啓示を言語という次元の低い表現を借りて表現するとしたら、二本しかない腕で何かを掴もうとするより、腕を広げてすべてを受け入れる覚悟があれば、向こうから自分の方へ“望んでいるもの”が飛び込んでくるというのだ。

ぽっかりと空いてしまったこころの隙間。それを埋めるのは本人でもなければ、他人でもない。その隙間を埋める必要なんて初めから無いのである。500年も続いた重要な儀礼が途絶えていても、久高島が神の島としての存在感が失われることはない。なぜなら、すべての成り行きを神に委ねているからである。

自分の力でなんとかして得ようと努力するほど、人はやることなすこと、自分のしっぽの追いかけっこみたいになって力尽きてしまう。それは、宇宙の法則に反しているからである。

初めからすべてが“ある”という前提で生きれば、人は与えることにしか興味が持てなくなるはずである。愛があるから与えるのではなく、平等に与えるという行為が愛なのだ。求めようと手を伸ばすのではなく、与えようと手のひらを天に向けてみる。与えた分だけ奇跡は起こるはずである。そんな星に我々は生きている。

Live your life !

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