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映画は市場に則るべきか?

今日は作品レビューではなく真面目な映画雑談を少しばかり。

映画が生まれて約100年と20年、これまでに世界中で数えきれない映画が撮られ、数えきれない大衆が消費してきた。今や映画が撮られていない国はないというほどに映画が半インフラ化している一方、映画に代わる映像エンターテイメントがぐんぐんと勢いを伸ばしているのも事実である。
映画の黄金期に奇襲を仕掛けたパイオニアはテレビで、一般庶民の家にテレビが普及すると、劇場に行って(あるいは街頭テレビで画面を共有して)みんなで一つの画面に集中する機会が随分と減った。この時点で映画の原点である大画面の共有感覚が既に失われ始めていたのだと思う。テレビ黄金期がしばらく続くと、次は「一家に一台のテレビ」ではなく、「一人に一台のスマートフォン」の時代がやって来た。要はデバイス黄金期である。現在進行形で続くデバイス黄金期はテレビ黄金期よりもずっと分割的でありながらで強大なパワーを持っている。常々指摘されていることだが、誰もが映像を発信できるようになり、短時間の映像メディアが大量にあふれている。2時間かけて映画を観るよりも、5分で笑えるYouTuberの動画の方が大衆の目を引き付ける時代なのだ。
映画、テレビ、デバイスの3つの黄金期を経て分かるのは、世界が経済的に豊かになるにつれすべてが個人化されていき共有感覚が失われていること。(今流行りのライブ配信によってバーチャルに共有するという特殊な共有スタイルが生まれつつあるが)個人化のトレンドの中で如何にして映画が生き残るべきかというのが今日のお話である。

映画の存在意義
世の中の映像メディアトレンドが短時間のエンタメ方向に向かっているとはいえ、映画がその潮流に迎合しては映画の存在意義に揺らぎが生じる。
基本的にこの世の中の商品・サービスは市場価値に則って作られ売られ買われているから、多くの人が必要とすれば高い値段がつけられ、需要がなければ値段はつかない。売り手は利益を得ることが大枠の方針であるから売れないもの、値段がつかないものは作らない。つまり、映画が市場の価値観に則って製作されるとすれば大衆が観たいと思うもの、大衆がお金を払って劇場に観に来てくれるものしか撮られなくなる。
いわゆる大衆エンタメ映画しか撮られなくなる(撮れなくなるともいえる)と何が起こるか?
端的に言えば「多様性の喪失」に繋がる。市場主義においては、価値のないもの・売れないものは競争によって淘汰されていき、より便利で効率的なものが必然的に生き残る。商品が人間の多様性に直結していない場合は市場の原理は歓迎すべきものではあるが、映画は人間の多様性に直結している。映画は世界にどんな人がいて、どんな風に生きているのかをありのままに映し出す力を持っている。例えば、アメリカでスパイク・リー監督が黒人を扱った映画を撮り続けているように、あるいは諏訪敦彦監督が映画の端々にクルド人問題を潜ませているようにと、映画は大衆の視界にはなかなか入らない少数派の人々の姿を提示できるのだ。でも多くの大衆は自分たちに直結していない問題を日頃から考えようとは思えない。(別に大衆を批判したいわけじゃなく仕方ないことだと思う。基本的に人間は自分の問題で必死である)だからマイノリティの問題を扱う映画は市場主義に則れば淘汰されていく。もちろん大衆の映画リテラシーが保証されているなら、不条理に少数派映画が淘汰されることはないのだろうが、残念ながらお世辞にも現代の大衆の映画リテラシーが高いとは到底言えない。
畢竟、映画の存在意義は多様性の担保にあると言っても過言ではないと小生は考えている。この役割は日常に溶け込みすぎた極限までエンタメにパラメータを振った映像メディアでは到底担当できない。

半分則り、半分逸れる~誰が映画の救世主か~
タイトル「映画は市場に則るべきか?」に対する小生の結論は「半分則って半分逸れるべき」である。
マーティン・スコセッシ監督は去年マーベル映画批判をして、あれは映画じゃないよと言っていたが、それこそ多様性の損失へと繋がる考え方だと思う。もちろん彼には彼の映画に対する確固たる姿勢や映画哲学があり、マーベルのような大衆映画がそれには沿っていないという考え方にも理解を示せるが、そうやって今の大衆トレンドを否定してしまうと映画離れがますます加速してしまう恐れがある。忘れてはならないのは大衆トレンドだって多様性に含まれる一つの要素なのだということ。市場に則って製作される映画を許容する一方で、市場から逸れた質が良くても人気のない映画を保護することが重要なのだ。映画を愛し、映画を存続させていきたい人がその保護に全力を尽くさなければならないのだ。
市場から逸れるが必要なものは政府が保護するのが定石ではあるが、残念なことに今の日本の行政にはその点を期待できない。コロナ自粛期間の補助金政策でも文化方面への辛辣な対応が明るみになったのも記憶に新しい。それこそ諏訪敦彦監督を筆頭に政策提言が進められているが、そうでもしないと政府が動いてくれないのは何とも悲しい現状である。
政府が動かないなら民間が動かなければならないということだが、さっきも言ったように民間も利益を求めなければやっていけないから、さて誰が動けばよいのか?
答えは簡単。この世界には損得勘定に囚われず、ただ純粋な価値を見出し熱狂的に愛を注げる人種がいる。オタクである。オタクはどんな分野においても市場主義を超越したエネルギーを発することができる。オタクというと一昔前から、特に思春期の人間の界隈では蔑まれがちな対象ではあるが、決してダメなことではないし、むしろ小生はみんな何かのオタクになってしかるべきだと思う。熱狂できる分野がない人間ほど悲しい人種はいない。趣味がない若者が増えているのは大変嘆かわしい。
小生もこれから映画の多様性の保護を念頭にいろいろな仕事をしていきたいと思っている。夢のミニシアター経営もそのうちの一つなのだ。

最近は、いろんなところから多様性を重視する声が上がっているが、多様性の重視は究極的には民主主義を補完する力を持っているからこのトレンドは大切に育てなければならない。民主主義は仕組み上、どうしても多数派の意見が採用されてしまう。その中で少数派をケアする意識を大衆が持つことができるかは、多様性が保証されている社会かどうかによる。理想の社会は映画を必要としていると小生は心から信じている。

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!