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クールの誕生

村上春樹氏『猫を棄てる 〜父親について語るとき〜』感想
#猫を棄てる感想文

机に立て掛けた教科書に隠し、好みの文庫本を読み漁ってばかりいた高校の授業。そんな中、文庫本をスッと閉じ、熱心に聞き入ってしまったのが、中島 敦氏「名人伝」を取り上げた現国の授業だった。先生が語った言葉の中で今でも心に残っているのは「君たちのこれからの人生で、繰り返し読むほど気に入る作品に出会い、その作品をより理解したいと思えるような幸運に恵まれたら、その作者の他の作品にも目を通すのはもちろん、文庫本の後ろをめくって生涯をまとめた年譜や略歴にも目を通し、作者の人となりをよく知ってみることだ」というもの。
『猫を棄てる』を読んで真っ先に思い浮かんだのは、この先生の教えだった。まさに村上春樹という人物を知り、作品をより理解するために、これ以上はない手がかりとなる、待望の一冊の登場だ。『村上朝日堂』シリーズをはじめとするエッセイ等を通して、ご自身が最近考えていることや懐かしい思い出を語られている村上氏だが、出自にまつわるお話をこれだけ深く語られていることは、今まで無かったのではないだろうか。それだけに、村上氏の小説を読む中で感じていた、目の前に見えていながら厚い氷の壁に阻まれて、おいそれとは手の届かないもどかしさを感じていた核心のような部分に、ようやく指先がスッと触れられた気がしている。あくまでほんの少しではあるが。

村上氏の小説に登場する主人公は、時に人生に対して「クール」に過ぎる傾向があると自分は感じてきた。このクール、昨今は格好良さに通じる意味合いで使われるが、主人公たちもその要素を存分に持ち合わせている一方、怖いくらい人生を「冷淡に」「冷ややかに」客観視している一面を垣間見せることがある。今まさに「やみくろ」と対峙している訳ではなく、場末のバーのカウンターでビールをひっかけていたり、街中を猫を探し歩いているような、よくある日常の光景の中、むしろ平凡と言える瞬間の中にこそ、死というものが常に目の前にあるかのように意識し、あまつさえそれを静かに受け入れているかのように見受けられる時があるのだ。クールに過ぎるメメント・モリは、村上氏の小説から切っても切れないテーマであると私は感じている。
今作では、村上氏の父上がどのような人生を過ごされたのか、特に「戦争」が如何に大きな影響を与えたのかを窺い知ることができる。そして、村上氏はその戦争という魔物の爪があと数ミリでも長かったら、父上の襟首を引っかけて過酷な戦場に連れ去り、恐らく命を奪っていたであろうこと、そうなると自分自身もこの世に生を受けることがなかったという考えを語っている。自分が生を受ける前、自分の意思や力が全く及ばない時点で、戦争という大きな災厄に生殺与奪を握られていた。自分自身がどう考え、足掻こうと、人生にはどうにも太刀打ちできない側面が間違いなく存在し、自身の存在など呆気なく消し飛んでしまうという厳然たる事実。それが、自分の預かり知らない父親の人生の中で、目前に迫っていたと思い至ったことが、前述の主人公たちの人生へのクールな態度として作品に滲み出ているのではないだろうか。

一方で、そのアンチテーゼとして登場するのが表題にもなっている「猫」であると私は感じた。村上氏と父上が猫自身の力ではとても帰ってくることは不可能であろうと考えた、自宅から離れた海外に置き去られた猫。しかし、そんな人間たちの思いを余所に、猫はひょいと帰ってくるのだ。猫には到底太刀打ちできないであろうと人間が考え、突然与えた理不尽な災厄を、飄々と乗り越えてみせた猫。二人には猫がどうやって帰ってきたのかはわからない。わからないからこそ、人知を超えて小さな命が運命に争った力強さをより逞しく、また誇らしくも感じたのではないだろうか。そして、この猫のように大きな困難に飄々と立ち向かい、したたかにタフに乗り越えたいく様こそが、村上氏の小説の主人公に感じる「クール」さの源泉だと私は感じた。

徒然なるままに読書感想文なるものを久しぶりに書いていたら、村上氏の小説で描かれる世界を再訪し、クールな主人公たちに無性に会いたくなってきた。現在は世界が残念な状況に包まれてはいるが、本を開く時間は十分にある。鼠や羊、やみくろが待つ世界で思う存分時を過ごそう。
最後に、芳醇な読書の原体験をまだ10代半ばの時期に与えていただいた、杉浦先生の現国の授業に感謝の言葉を捧げたい。

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