おばあちゃん、ありがとう。

祖母とコミュニケーションがとれなくなって、どのくらいが経つだろう。

80歳の祖母は、4年間過ごした老人ホームで看取り介護のもとにいる。

なにか身体の病気があるというわけではなく、脳神経系に問題があるようで、数年前から寝たきりで、手や足を動かすことも、話すこともできない。

料理がうまく、食べることが大好きで、いつもおしゃれに気をつかっていた祖母の体から容赦なく肉がなくなっていくのを見るのは、最初のうちは胸が痛かった。

また、祖父が亡くなってから、ひとりの寂しさに負けないよう折り紙や塗り絵をはじめて、ふんばる祖母は頼もしい!と過信していた自分を責める気持ちも湧いた。


だけど、私はもう祖母に会う時、泣かない。なぜなら、祖母の死にともなう悲しみの総量を使い切ってしまったからだ。祖母の亡くなる前に。

幸い、とめどなく悲しみが湧いて出るということはなく、もともと決まっている涙の最大総量を、身体の機能が順々に停止していく祖母を見るたびに、少しずつ消化した。少しずつ帰りの車で泣いた。少しずつ。そしてとうとう、半年前に全部使い切った。


泣くのは決まって帰りの車の中で、祖母の前ではほとんど泣かなかった。一緒にいた父や妹が嗚咽しているのをみて、逆に冷めてしまうことすらあった。


一昨日、また祖母のところへ行ってきた。祖母は数日前からほとんどなにも食べられなくなっていて、担当スタッフの方は「今は最終段階として脳内麻薬がでているような状態で、あと数日だと思います」といった。


けれど思いの外、祖母の顔色は良かった。


いちご味のゼリーをお湯で溶かしたものを、スプーンで唇の隙間から流し込まれた祖母は、ずっとしかめっ面のまま口をもそもそと動かしていた。

久しぶりに味覚を刺激され、うとうとし始めた祖母をしばらくぼうっと眺めていた。気づいた時には、甘ったるくも軽快ないちごの香りが部屋に濃度を高めて充満していて、私はつい咳き込みそうになり、祖母に背中を向けた。

小さなお仏壇と目があった。中に祖父がいる。お仏壇の扉は、祖母が入居した時からずっとピシャリと閉まっている。私が扉を開けようとすると、祖母は毎回決まってうめき声をあげて嫌がった。


祖母はもう寝てしまっていたので、私は久しぶりにその扉をあけてみた。そこには、変わらぬ祖父の遺影と一緒に、ドラえもんのポチ袋が数枚置いてあった。

祖母がまだ少しだけ動けた時、私が施設に行くと、毎回それにお小遣いをいれ、「少しだけど、本でも買ってね」と渡してくれたことを思い出した。ここに隠していたんだ。


引き出しには、ジップロックに入った祖父の写真が数枚あった。入居前に家でかき集めて、いつでも見返せるようにとしまっておいたのだろう。

入居してから一度だってお仏壇の扉を開けておくことを許さなかったのに。九州生まれ九州育ちの頑固な祖母は、施設に入ってからも、季節の行事等には一切参加しなかった。部屋でひとり、なにをして過ごしていたのだろう。

祖母の入居中に、祖母の家は、他の知らない人のものになった。

なんだか背後に視線を感じて振り返ると、祖母が目を見開いてこちらを見ていた。
私は、「ごめんごめん」と慌てて謝り、祖母の方に向き直った。

私は、なぜだか半年ぶりに涙がこぼれそうになった。でもその涙を頬につたらせるまいと、必死にそれを目の中に押し戻した。

祖母の視界に入る最後の瞬間には、私の、そして家族の笑顔を映して欲しかった。


祖母の前で大きな声をあげて泣く人を、私が冷めた目で見てしまう理由が今日やっとわかった。

祖母の視界がどこまで良好なのかわからない、もう顔は認識できていないかもしれない。でも、祖母にはちゃんと私の笑顔を見ていてほしかった。

悲しみは祖母に見えないところで済ませ、祖母には私ができる最大級のやわらかい顔を見てもらう。 

私が祖母にしてあげられたことは本当に少ない。

祖母から魂が離れていく最後の最後まで、涙の影がないやわらかくてあったかい自分の顔を見せること。

数年間、声も、表情も、身振り手振りも、すべて体内に閉じ込められてしまった祖母に、私がしてあげられる最後のことだった。



今日のお昼過ぎ、目の前で祖母が旅立った。

おばあちゃん、ありがとう。


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