見出し画像

インタビュー【絣産地の女たち2020】 vol.03 加藤田ミハルさん(元・丸亀絣織物)

50年以上、久留米絣職人として幾つもの織元で働いてきた加藤田ミハルさん。
初めてお会いした時は小柄でニコニコしていて、なんて可愛いおばあちゃんなんだろう、というのが正直な印象でした。
ですが、お話から見えてくるミハルさんの人生に、私は圧倒されてしまいました。

【プロフィール】
加藤田ミハルさん
1940年生まれ。20代の初めから50年以上の経歴を持つ久留米絣職人。
3人の子供があり、多くの孫、ひ孫に慕われている。

機屋はたやの仕事はなーんでも、一通りはしてきたつよしてきたんだよ。」
絣職人としての経験を、そんな風に話すミハルさんの手。
小さいけれども使い込まれたしわの一本一本までが印象に残る、職人の手です。
ミハルさんが久留米絣の仕事に携わって、もう50年を超えます。
20代のはじめに絣の世界に入り、80歳※の今も、週に5日の仕事を続けている現役の絣職人です。(※2020年取材時)

久留米絣職人・加藤田ミハルさん

初めて加藤田ミハルさんにお会いしたのは、2020年6月下旬の日曜日、Kibiruでのこと。
「あっちィ話し、こっちィ話しして、なかなか終点(Kibiru)まで行きつかんかったー」と、笑顔で現れたミハルさん。
お手製の久留米絣の帽子と、絣のワンピース姿がおしゃれです。
小柄ですがエネルギーたっぷりで、笑顔がとてもチャーミング。明るい筑後弁の語り口調も印象的です。
絣ば見たらね、なんでんなんでも欲しくなるとよ」という、大の久留米絣ファンでもあります。

ミハルさんは丸亀絣織物「つまみ染め」職人です。
つまみ染めとは、「捺染なっせん」「刷り込み」ともいわれる技法で、一度染色した糸にさらに刺し色を入れる作業のこと。
掛け台に糸束を掛けて織り上がりの柄が分かる状態にした上で、指定の箇所を染料を付けた棒で挟み、刷り込むように染色していきます。
丸亀織物では一度に約14反分の糸を仕込みます。一反はおよそ12メートルなので、生地の長さにして170メートルほど。

一束ずつ糸に染料を擦り込んでいく

いくつもの染料が必要な複雑な色柄の生地もあります。地道で神経をつかう職人の手仕事です。
「図面を見ながら(作業)せんとねしないとね、間違いそうになるとばい」と、ミハルさん。終日、丸亀絣織物の工場の二階にある、たった一人の作業場で黙々と仕事に取り組んでいます。
「仕事の時はだまーって、ラジオ聴きながら(作業)して。退屈したな、ち思うたらと思ったら『うーん』て伸びして運動するとよ。」

壁に貼られた図案を確認しながらの作業

仕事で赤い染料を使った日は、指先に真っ赤な色が残ります。
「友達に『あんた梅漬けたつね?梅を漬けたの?』ち、聞かるるけん、『うんにゃ。梅じゃなか、染料ばい染料ですよ』ち、言うとよ。」
そう言って笑うミハルさんの爪の赤い染料は、愛らしいマニキュアのように似合っています。

ミハルさんの一日

ミハルさんは80歳※の今でも、月曜から金曜まで週に5日、丸亀絣織物に出勤します。(※2020年取材時)
仕事から帰った後は、30分から1時間ほど日課の散歩。散歩から戻ると、ペットの亀〈トヨちゃん〉をお風呂に入れます。
「夏は水風呂に。冬はね、お湯ばお湯を沸かして、ちょっと手をつけて温度をみてからね。」

トヨちゃん

お孫さんから譲り受けた大事なペット、トヨちゃんのことをミハルさんはとても可愛がっていて、夏の暑さで食欲がない時など心配になってしまうのだそうです。トヨちゃんのお風呂の後は、飼っているメダカにも餌をやらなくてはいけません。
「多趣味やけん、なかなか忙しか」とミハルさんは笑います。
夜はテレビを見たり、クロスワードパズルを解いたりして、12時ごろに就寝、というのが現役の久留米絣職人であるミハルさんの1日です。

幾つもあるメダカの鉢

「絣にまみれて」育ったひと

ミハルさんは広川町生まれ。久留米絣との関わりは、子供のころから始まっています。
親戚に久留米絣の織元があり、そこで余った糸を譲り受けて母親が自宅で生地を織り、ミハルさんたち兄弟の服を作ってくれていました。
「兄弟が多かったけんね。(母親が)手織りしよる側でいつでんいつでも遊びよった。小さい時から絣にまみれて育ったとよ

偶然にも、現在の仕事場※である丸亀絣織物はミハルさんの実家から一軒おいてお隣。生活や風景の中に久留米絣があるのが当たり前。幼い頃からそんな環境の中で育った人なのです。 (※2020年取材時)

絣職人としての出発・国武織物

町の中学校を卒業した後、兄が住んでいた大阪で6年ほど過ごしたミハルさんは、昭和40年ごろに広川町に戻り小学校の同級生とお見合いで結婚。
結婚後すぐに、近所にあった国武織物で働き始めます。

現在もそうですが、久留米絣の製造工程は基本的に分業です。
外注も含めて、図案作り、糸の整経、括り、染色、糸巻き、製織など、30近い工程をそれぞれの職人さんが担当して作業し、次の工程の職人さんに渡して、と順々に糸が職人さんの間を渡っていき、織り機にかけられて布になり、その布が整反されて製品となります。

ミハルさんのお話をもとにその頃の国武織物の作業の様子を再現しながら、久留米絣の製造工程を追ってみましょう。
まずは社内で糸の整経が行われます。次にその糸は、筑後の専門の括り職人さんの元に届けられ、図案に沿った括りが施されます。
括られて戻ってきた糸を染めるのは男性の職人さん。染めた後の糸を干したり括りを解いたりする作業はまた別の男性が行います。

括りを解かれたタテ糸、ヨコ糸は、織り機にかける前に専用の糸巻きに巻き取ります。この巻き取りの作業と、それからシャトル織機での機織りは女性の職人さんの担当です。
機械織りの場合、ヨコ糸は〈トング〉という板状のに巻き取ります。20本の束になっている糸を、20個のトングに反物の両端に当たる耳の位置を揃えながら一度に巻いていく作業は難しく、熟練するには年数を要します。

この難しいトング巻きを、当時のミハルさんは赤ちゃんに授乳をしながら行っていたのだそうです。
「そいこそ、こう、腰掛けてね、子供抱っこしておっぱい飲ませながら(作業)しよったしていた。今考えても、どげんやってどうやって巻きよったかなー、ちうて。」

※2020年撮影

こうやって糸巻きに巻き取られた絣糸は、シャトル織機で織り上げられ、水通しして整反されたのち、製品として出荷されるのです。

子育てをしながら働く

「1番上ん子が生まれて2、3か月ごろから仕事に行き始めたけん、工場に(子供を)連れて行きよってね。」
小さな赤ちゃんを抱えて働き始めたミハルさん。国武織物と親戚関係だったこともあって、織元のおばあちゃんが自分の部屋で赤ん坊の子守をしてくれました。
「時間になったら、子供におっぱいをあげにその部屋に行きよった。」

子供を連れて働きに来ていた女性の職人さんは他にも5、6人いました。当時は仕事をした分だけ給与が出る出来高制だったため、仕事の合間をみて子供の世話をする、という働き方が可能でした。
子供たちは職人さんの休憩室を遊び場にしたり、自分たちだけで外で遊んだり。
(子供たちは)はたの所には絶対に行かない。やっぱり、行ったらいけんて行ってはいけないと思うとるじゃんね、子供たちも。」

そうやって、絣工場の中で育ったミハルさんの娘さん。少し大きくなっても保育園から帰ると、工場に来てお昼寝をしていたそうです。
「自分で布団しいて寝てから、目が覚めたら遊びに行って。
家の近くじゃったけん、家で寝たほうが静かでよかろうばってんがいいだろうけど
赤ちゃんの時から機織りの(音を聞いている)。そいけんだから、機が止まると目が覚めよったけんね。」

そんな子供たちを、工場の人たちも可愛がっていました。
タテ糸を必要分巻き取ってその後の工程の準備を行う「整経」。長く糸を張って作業を行う作業場で遊ぶ娘さんの背丈が徐々に伸びていくのを、工場の人たちはあたたかく見守ってくれたのです。
「糸があるじゃろ、その下をくぐるけんでくぐるから、「こん子が大きなっとの大きくなるのがわかる」ち言わしゃるとじゃん。
はじめ小さかったとが、だんだん(背が伸びて)糸に届くごと届くようになってから。」

実は結婚してからずっと、ミハルさんは一家の大黒柱として家計を支えてきました。
夕方まで機織りの仕事をした後に、夜の19時までブドウの袋掛けなどの季節の農作業をこなすダブルワーク。
お子さんたちが大きくなってからは、土日は2人の娘さんたちも共に農作業に出て、小学生の息子さんが1人で留守番をし、家族のお昼ご飯を準備します。
「息子に「今日の昼ご飯は素麺」ち言うとくとって言っておくと、(農作業から)帰ったらちゃーんと素麺ゆがいて茹でて出してくれる。みんなが働きもんやったよ、父ちゃん(夫)以外は(笑)。」

精密さも体力も必要とされる織物職人の仕事に加えて、農作業をこなす日々は大変だったに違いありません。この話題では少し口籠ったミハルさん。
ずっとニコニコ笑顔だったのが、この時だけ苦笑に変わったことが印象に残りました。

小川内織物へ

数年後、ミハルさんは小川内織物へと職場を移します。
元々括りを専業で行っていた小川内織物は、その後、機械織りの織元となり、それから藍染め手織りの織元へと変わっていきました。その小川内織物で、ミハルさんは足踏み織機による手織りを主に担当します。
「手織りは面白かよ。機械やと早いし、耳※も合わせんでいいやろ。手織りは一回一回耳を合わせながら織る。織りよって織っていて柄が出てくると毎回、綺麗ね~、ち思うよ。
織元の小川内さんとは歳も近く、今でもお付き合いがあるのだとか。

※耳:反物の左右の端に当たる部分。久留米絣では糸に括りであらかじめ印を入れておき、柄合わせをしながら織る。

どんな柄でも絣好き

そして、小川内織物で働いている時に作った久留米絣のワンピースが、ミハルさんを絣好きにする第一歩になりました。
麻の葉柄の手織りの絣生地で作ったワンピース。長い間着こなした生地は柔らかい手触りに変化しています。何と、30年以上経った今でも着られるのだそうです。

麻の葉柄のワンピース

今も、久留米絣を見ると買わずにはいられない、というミハルさん。
好きな柄は何ですか?と尋ねると、「好きな柄ちうかね、私ね、見たら、はいこれ、って買うとよ。柄が変わったらね、欲しくなると。」とのこと。

そうやって買い集めた生地は自宅の箪笥の引き出しにしまってあります。
縫製の仕事をしている娘さんが、その中から見繕ってミハルさんのサイズに合わせて好みのデザインの服に仕立ててくれるのです。
ご自宅には、先述の麻の葉のワンピースをはじめ、ミハルさんお気に入りの絣ファッションがたくさんありました。どれも小柄なミハルさんサイズに合わせて作られた、可愛い印象のものばかり。
冒頭の写真で着ている水色のワンピースも、娘さんお手製の一品です。

丸亀絣織物の荒巻き職人として

小川内織物が生産規模を縮小するタイミングで、ミハルさんは20数年間働いてきた久留米絣の世界から一旦離れることになります。
近隣の高校の学食での仕事を見つけて働き始めるのですが、朝早くから大きな鍋で大量の食事を作る作業は体力的に厳しかったそうです。
五升の米を1日に12回も炊くようなハードな仕事で「手が上がらんごと上がらなく」なってしまいます。
お子さんたちもそんなミハルさんの体調を心配していたころに、ちょうど働き手を探していた丸亀絣織物から声がかかりました。

最初のうちは「夕方(学食の)仕事が終わってから(丸亀絣織物に)働きに行きよった」と、学食と兼業で働いていましたが、そのうち「できれば学食を辞めて働きに来てほしい」との申し出があり、「よか幸いちょうどいいタイミング」だと転職を決意します。

平成2年から本格的に働き始めた丸亀絣織物で、ミハルさんは今度は主に「荒巻き」を担当することに。
荒巻きは、括りをして染め上げたタテ糸を、機にかけられる状態に巻き取る整経作業。タテ糸に染められた柄がズレがないように揃えて巻き取ることでタテ絣・タテヨコ絣の出来上がりの美しさを左右する、大切な工程です。

若手の職人に引き継がれた荒巻き

火事と病と

ミハルさんの50年以上にも及ぶ職人人生のうちの、約半分にあたる30年を丸亀絣織物での荒巻き職人としての経験が占めています。
その中でも大きな出来事として語ってくれたのが、2013年に丸亀絣織物を襲った火事のこと。

「近所の人が『ミハルちゃん、丸亀さんが火事!』ち言うけんと言うので、家から飛び出したら『あんた、裸足!』ち言われてね。」
取るものもとりあえず、走って火事の現場に駆け付けましたが、何をすることもできませんでした。
「すごかったよ、夜の火事やけんね。」

その後、丸亀絣織物の再出発が決まり、社屋の再建の間2年ほどは、廃業した久留米市の絣工場に通って仕事をしていました。その工場の織機を丸亀絣織物で譲り受ける、という予定だったためです。

「あたしが荒巻きを巻いて、もう一人の人が機織りして。(休憩で)『お茶飲もうかにゃー』、ち、二人で道端で道で腰かけとると、社長が迎えに来るとよ」
会社の再建の時期で大変なことも不安もあったと思うのですが、ミハルさんの口調はとてものどかです。
それは生来の前向きな性質からくるものであると同時に、目の前にこなすべき仕事がある、職人として作業できるという、仕事による充実にも支えられていたのではないかと感じました。

丸亀絣織物 (2020年撮影)

そして、ミハルさん自身に起きたもう一つの大きな出来事は、2019年冬の入院です。1月15日の夕方、食事の準備をしていたミハルさんは、体調がおかしいことに気付きます。
「帰ってから、ご飯食べようかなーち思うて、ガスん火ぃつけたと一緒に、あら今日はいつもと違う、ち思うて、もうガスも消して、どこでも鍵つめて鍵を閉めて、私の部屋だけ開けて、で、寝とって。
そして血圧計付けとったら、血圧のだんだんだんだん上がっていくっちゃんね上がっていくんだよね。」

ミハルさんの連絡で駆け付けた甥ごさんが救急車を呼んで、病院へ。
突発性難聴と診断され、40日ほどの入院になりました。ちょうど新型インフルエンザの流行の時期と重なっていたため、心配するお子さんたちに面会にも来てもらえず、日々「退屈にゃー」と過ごしていたそうです。

そして、退院後は長年続けてきた荒巻きの担当を若手の職人さんに引継ぎ、ミハルさんはつまみ染めを担当することになります。
通常、つまみ染めは立ったまま行いますが、病後のミハルさんが座って作業できるようにと、丸亀絣織物の社長が身長に合わせて掛け台の高さを調節してくれました。

勤務先からも「無理せず長く働き続けてほしい」と言われ、散歩やペットの世話などで暮らしのペースを作りながら、ミハルさんは着々と日々の仕事に励んでいます。

ミハルさんのプライベート

ミハルさんはとてもアクティブ。週2回のグランドゴルフは欠かさず、お友達との交流や老人会の旅行など楽しみが尽きません。そして、登山も好きだとのこと。山道が険しいことで知られる宝満山(福岡県太宰府市)にも70代で登ったそうです。

2018年、お孫さんの結婚式で初めて行ったハワイではダイヤモンド・ヘッドに登りましたが、途中で娘さんに「ここでやめとこう」と止められた、とのこと。「あたしはこれ(ダイヤモンド・ヘッド)に登ろうちうで(ハワイに)来たとけ登ろうと思ってハワイに来たのに」と、まだ登頂への未練がある様子。
コロナウィルスの感染が落ち着いたら、娘さん夫婦と一緒にまたハワイ旅行に行く約束をしているそうです。

お気に入りのフクロウの絵絣のバッグ

2022年現在、ミハルさんは丸亀絣織物を退職され、自宅でつまみ染めの仕事を続けています。
お子さんたちやお孫さんたちに慕われ、町内にも多くのお友達がいて、「今が一番幸せばい」と笑うミハルさん。
久留米絣の職人として仕事をしながら、倒れて半身不随になった夫の、12年にも及ぶ壮絶な自宅介護も経験しました。

町でミハルさんを見かけたら、きっと可愛いおばあちゃんだなと思いながら通り過ぎてしまうでしょう。その小さな体と明るい笑顔の中に、仕事でも生活でも様々なことを越えてきた強さが隠されていることに、お話を伺った私は圧倒されました。

ミハルさんの若い頃はもちろん、21世紀の現在に至っても、女性が働くことは家族や自身の生活を回していくことと切り離せません。家事、育児を滞りなく行いながら、職業人としての責任も果たすためには大変なエネルギーが必要です。
久留米絣産地にも、他の様々な場所にも、仕事と生活の両方を支えながら黙々と自らの営みを送ってきた女性たちが必ずいます。
今回のインタビューを通してそのうちの一人であるミハルさん出会えたのは、私にとって本当に貴重な経験になりました。

文責:冨永絵美
Photo by Aki Watanuki

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?