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夜の過ごし方が上手かった高校時代の私

高校時代の私は、大人になった今の私よりも、夜の過ごし方が上手かった。

小泉今日子さんの対談エッセイ「小泉放談」にて、子供の頃一人で布団の中で本を読むのが贅沢だったという話題が登場する。夜は寂しくなかった、とも。
それに対して私は「羨ましい」「すごいな」と思った。寂しい夜、私は友人に電話をするときもあれば、「最近他人に依存しすぎてないか?」「電話しすぎて鬱陶しく思われないか?」と考えを巡らせて、結局ただ無為に楽しくもない時間を過ごしてしまう夜もある。

でも、思い出したのだ。
中学や高校時代の私は、夜の過ごし方がもっと上手だった。

今と違ってスマホなんてないから動画も見れないし、電話なんてかけたら通話料の請求で親にバレて怒られた。さらにうちはSNS禁止だったので、寂しい夜に他人と繋がる手段なんてなかった。

今思えば「不便」な状況だった。
しかし、この「不便」が当たり前だったからこそ、寂しい夜に人と繋がれることに対してなんの期待もしていなかったんだと思う。

ある夜は、窓を開けて星空を見ていた。
気がつけば星座が角度を変えるくらい長時間見ていたこともあった。「この星が消えても、私が生きているうちに知覚することはないんだろうな」なんて、ベタなことに思いを馳せたりしていた。

またある夜は、ラジオを聴いていた。
どこかで収録してるパーソナリティと、生電話に当たったラジオネームの少年少女と、私と。インタラクティブではなくとも、確かに同じ時間を共有していた。インタラクティブではなくとも、面白かった話や覚えていたい言葉は、インタビュアーのようにノートにメモを取っていた。

またある夜は、音楽を聴いていた。
子どもでもない、大人でもない、無知でもないけど何も知らない、そんな自分の浮遊感を弄びながら、分かるようで分からない歌詞を分かった気になって味わっていた。意味は分からなくても、こんなに心が動かされる音楽に出会えたという事実が私を大人にさせ、アイデンティティーの輪郭を作ってくれた。

「寂しさ」に支配されず、無為に「繋がり」を求めず、好奇心を携えて夜を冒険していた若かりし頃の私は、夜の過ごし方が上手だったんだなぁ。

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