レモネード

 夏に凍えたのは、初めてだ。

 2人で分け合ったスタバのキャラメルフラペチーノ。朝まで繋がったままのテレビ電話。2人で感激したモネの池。ストロベリームーンの下で乾杯した缶チューハイ。
 月が綺麗な日は毎回、彼女に「今日、月が綺麗だよ」と言った。彼女が夏目漱石を好きではないことを知っている上で言った。好きなら絶対に言えない。「月って昔の光で輝いてるんよ」「へぇーそうなんだ」いつも内容のない会話だった。それが心地よかった。それらすべてがフラッシュバックして消えた。

 その一言が告げられた後、凍えた。止まった心臓を感じた、と同時に、ものすごい勢いの血流も感じた。たった一言で人生の味が変わった瞬間だった。自分が徐々に溶けて沈んでいく。焼きたてのトーストの上で溶けて沈んでいくバターのように。
 コーナに追い込まれて、まともに立っていられない状態でもまだ敵は向かってくる。不採用通知とともにエントリーシートが返ってきた。読んだ跡もない綺麗なエントリーシートが。何時間もかけて書いたエントリーシートが。それは強烈なパンチだった。電気を消して倒れ込んだ。3分してまたパンチだ。試合はまだ終わっていなかったのだと気づく。
 「もう決まったんだー おめでとう!!!!」と上っ面のおめでとうで返す。苛立ちの分だけ「!」を増やす。これが唯一の攻撃だった。

 すると、甲高い声が耳に刺さった。
「暗い顔ですねー、部屋の電気はつけないと」
「ほっといてくれ」
「暗いままだと暗いままですよー」
「……こんなはずじゃなかったんだよ、今まではよかったよ」
「月かよ」
 このつっこみに関しては理解ができない。そして、それ以上に理解ができないこと、それは今、誰と会話しているのかということ。
 我に帰った、すぐ電気をつけた。机に腰掛けているのは、うさぎのフィギュアだった。

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 芸大に友人がいる。ひさびさに会って呑むことになった。あいかわらず時間にルーズで33分遅れてきた。苛立ちよりも変わってないことへの嬉しさが込み上げた。高校の頃は、適当の代名詞のような奴だったのに、そこはすっかり変わってしまった。将来のビジョンをしっかり見ている気がした。最近は、3Dプリンターでフィギュアを作ってると聞いた。そこで、うさぎのフィギュアを作ってもらう約束をした。なぜこんなうさぎなのか、と聞かれた時は答えることができなかった。言語化できない好みが真の好みなのかもしれない。

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 まさか、そいつが動くとは思わなかった。が、驚きはない。むしろ、おもちゃは動いていると思っていた、人間が見ていないところでの話だが。赤っ鼻で、歯がでている。足と耳がとにかくでかい。どこまでもひょうきん、滑稽なうさぎだ。人気もないのに真ん中に立つなよ!とつっこみたくなる。
 日常が潰れるほどの異常なことでも、しばらくすると慣れという化け物のせいで日常になる。人間の感覚は、便利でありながら恐ろしいものだと学んだ。
 あいつは、いつも喋るわけではない。突然喋りだし、突然フィギュアに戻る。おとなしく部屋にいてくれることを願いながら寝た。

 クーラーが切れて2時間、暑さに抱きつかれて目を覚ました。最高気温37度という涼しげなアナウンサーの声がテレビから聞こえた。ネクタイを締め、ジャケットを羽織りながら憂鬱になった。
 暑さと緊張に締め付けられながら、ドアをノックする。5人が並んで座る。正面の男性たちがこっちに目も向けず質問を捨てる。それを並んだ5人が必死に拾い上げ、事前に用意した回答を探す。そして、「はい」の後に読み上げる。
 これに何の意味があるのか。こんなことで人がわかるというのか。内定0の典型的愚痴だ。
 隣の1013は完璧に質問に答えている。ここでの完璧は、事前に用意した回答を完璧に読み上げたということだ。
 会場を後にし、駅まで徒歩。革靴がまだ足に懐いていなかった。ふと前に視点を戻すと、ペットボトルが投げ捨てられた。反射的に走って、肩をつかみ、振り返らせてやった、やりたかった。なにも出来ないまま信号で追いつき隣に並んだ。もう1度、隣に並ぶとは思わなかった、1013と。


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 ウィンカーの音を感じながら、うまくいかない人生について耽る。ウィンカーの音はなぜか落ち着く。黒く怖い顔をした車の、甲高いクラクションで現実に戻された。そういえば、甲高い声のあいつは、あれから3週間動いていない。厳密には動いたところを見ていない。そんなことを考えていると、駐車に失敗した。お気に入りのハンバーガー屋で、テリヤキ&ポテトとレモネードを頼んだ。「&」は可愛そうだと思う。本当はアンドという名前ではない、アンパサンドだ。違う名前で一生疑いもなく呼ばれ続けるこいつは可愛そうだ。どうでもいいが。
 テリヤキバーガーもポテトフライも大好物だ。しかし、レモネードとはまったく関わりのない人生だった。まったく興味がなかった。が、なぜか頼んだ。
 帰宅した途端、今日が結果発表の日であることに気づいた。口の周りについたテリヤキソースには気づかないまま。
 ネット上に1次面接合格者が挙げられる。その中になかった。が、あった。つまり、1012はなかったが、1013はあった。スマートフォンを投げ捨てた。
「笑わないと」あいつだ。「ユーモアがなくなったらおしまいだよ」耳を引きちぎってやりたかった。地面に叩き潰したかった。だが、体が動かない。「笑いはすごいんだよ、すべてをかえる力がある。ユーモアを忘れたら、僕だったら死ぬね」あいつは独り言のようにつぶやいた。
 つぶやき終わると同時か、それより前に親友2人にLINEしていた。もちろん無意識だ。「夜なら」と「俺も夜」といつも通りの素っ気ない文字に既読をつけた。

 親友たちに救われた。好きな女優や先輩の愚痴、人生の野望とか。笑えないほど下品な話もした。内容はまったく覚えてない。ただ残っている言葉があった。「見返してやれよ」と「思ってる以上に悪くはないよ」だった。救われた。2人に感謝しながら、おもいっきり肩を組んだ。最低な奴らだけど、最高の奴らだ。

 「最悪、2日酔い」のLINEに「そっか」と素っ気ない文字を返した。1度は長文を打っていたが、すべて消してこの3文字にした。

 なぜかあの日のレモネードが忘れられず、作ることにした。わざわざ2日酔いの日にすることでもないのに。

レモンを輪切りにする。黄色の断面からの果汁がまな板を濡らす。口の中も濡らす。苦味と酸味が強すぎた。まったく美味しくない。レモネードは自分次第で味が変えられることに気づいた。苦味と酸味が強ければ、甘味を足せばいい。当たり前のことだ。でも、これが、これが美しく思えた。


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 大学の目の前の喫茶店。週に1度は必ず来ていた。おじちゃんとおばちゃんに卒業式が終わったことと、就職できたことを報告した。いつも通りのカレーライスを頼んだ。食後にミックスジュースも頼んだ。メニューのドリンク欄には、レモネードもあったが、迷わずミックスジュースにした。少し前のレモネードに凝っていた時期は忘れていたようだ。
 芸大の友人からLINEがきた。「約束してたうさぎ、やっとできたよ。いつ空いてる?」と。

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