Revival

 九月の終わり。

 武川は旧知の仲である知り合いと、楽しい時間を過ごしていた。彼には若い頃、淡い恋心を抱いていた時があったが、想いを伝えるタイミングが合わずそのまま疎遠になっていた。偶然にもわんだほうで再会してから、時間が合えば良く一緒に飲むようになっていた。

 もともと馬が合い、仲違いをして別れたわけではなかったので、互いに喪われた時間を取り戻すのにそう時間はかからなかった。気心が知れた彼には武川も素直に甘えることが出来た。仕事の愚痴や人間関係の悩みなど、重ねた年齢の分だけ鎧を纏った心の裡を、時折零すこともあった。

 「もう、すっかり秋だな」

 「そうだな」

 風に乗ってどこからか香る金木犀の匂いが、遠い記憶を呼び覚ます。それはかつて別れを告げた恋人の面影。

 「どうも秋は感傷的になるな」

 武川は曖昧にほほえんだ。

 「どうした?」

 「いや、まだ時々、終わりを告げた恋を思い出してしまって。受け入れたつもりだったんだがな」

 「そうか」

 なにも詮索しようとはしない旧友のやさしさに、胸が締め付けられる。だから昔も惹かれたのだ。

 ふいに武川の視界が揺らいだ。零れ落ちそうになる涙を堪えて点滅する信号を見上げると、煌めくネオンと相まって花火のように見えた。いつか君と見た、打ち上げ花火。

 『行こうよ!政宗!』

 そう遠くない記憶の中の牧が、笑顔で武川の手を引く。

 いつの間にか手が届かない存在になっていた恋人。心の奥底に沈めたはずの感傷。よく時が解決してくれると言うけれど、まだ忘れられそうにない。忘れたくはない。

 「もう、終わった話だよ。今日は少し飲み過ぎた」

 そう寂しく告げる武川の目に涙が溢れた。好きでもどうにもならないことがあると、自分の心に嘘を吐くことばかりが上手くなる。武川は上手く笑おうとしたが、溢れる気持ちは抑えられなかった。

 「そんな顔をしたら放っておけなくなるじゃないか。これからお前の家に行っても?」

 武川は旧友の突然の告白に一瞬たじろき、揺れる心に戸惑いを隠せなかった。そんな武川の気持ちなどとうに見透かしていると、真っ直ぐに彼を見つめ返す熱いまなざしが物語っていた。

 「そんなの…断れるわけないだろう」

 武川はそう苦く笑った。

 

青い空と、苦い珈琲


 武川は自宅のマンションのドアを開けると高村を招き入れた。広めのリビングへと通すとソファーに座るよう勧める。

 「コーヒーでも飲むか?それとも呑み直す?」

 スーツを脱ぎ、ネクタイを緩めながら武川が訊く。

 「コーヒーを貰うよ」

 高村は静かにそう応える。リビングを見渡すと、間接照明の仄暗い灯りと水槽の青白い明かりが対照的で、コポコポという水が循環する音だけが規則的に響いていた。落ち着いたトーンでまとめられたインテリアと革張りのソファー。塵一つ落ちていない空間は武川の人のなりそのままだった。程なくして2人分のコーヒーを淹れた武川が高村に尋ねる。

 「ブラックだったよな?」

 「ああ、ありがとう」

 マグカップに注がれたコーヒーがテーブルの上で揺らめく。武川は高村の隣に腰を下ろすと、苦いコーヒーを口にした。

 「もう、落ち着いたか」

 静かな高村の言葉に先ほど醜態を晒した恥ずかしさに消え入りたい気持ちになる。幸いリビングは仄暗く表情までは読み取られないだろうと密かに安堵する。

 「醜態を晒したな。すまない」

 いつものように鎧を身に纏い、感情に仮面を着けると自虐的に笑う。それがどれほど嗜虐心を煽るのか、本人だけがわかっていない。

 「牧とは…牧は俺の恋人だった奴だよ。彼とは別れてから職場で再会したんだ。さすがに俺も動揺した。でも牧には好きな相手が居て、結局は牧とそいつの背中を押してやった。我ながら模範的な理解ある上司だよ」

 「後悔してるのか?」

 「いや、それはない。ただ…」

 「ただ?」

 「お前と話しているうちに気が緩んでしまった。自覚していないところでまだ引き摺っているのかもしれないな。まさか自分が泣くなんて思いもよらなかったよ。お前には相当甘えてる」

 大げさに笑って、なんでもないように武川が言う。

 「なら、もうここで全部ぶちまけて、全部曝け出してしまえばいい」

 「…高村」

 その気迫に武川がたじろいだ。

 「俺をこの部屋に招き入れたということは、そういう意味じゃないのか?」

 「ッそれは…」

 思わず言葉に詰まる。いい大人が熱を帯びた視線を送る相手を部屋に招き入れておいて、そのまま何もせず帰すなんてさすがに酷いと思う。ただ、情欲を吐き出すだけのためのセックスを望んでいたわけではなく、単にひとりになりたくなかっただけだ。純粋に人肌の温もりに触れたいと思っただけだ…。生娘でもあるまいし、そんな言い訳じみた感情を理解して貰うのは無理だろうか。

 武川はしばらく逡巡し、メガネを外すとテーブルの上へと置いた。それが合図という風に、高村は武川を引き寄せると唇を塞いだ。何度か角度を変えて、触れるだけのキスを繰り返す。

 武川の中にある恋の影を全て吐き出させたい。彼が見る世界全てを自分の存在で塗り替えたい。少なからず好いと思ってくれているのなら、何年でも待つつもりでいる。

 武川は打ち拉がれた少女のように小さく震えた。青白い静寂の中、武川の荒い息遣いとコポコポという水が循環する音だけが響いた。

 「うっ…うっ…ぅあああぁぁー!!」

 身を縮ませた武川が堰を切ったように泣き喚いた。高村がそっと武川を抱き寄せると、武川は子どものようにわんわんと泣いた。彼が泣き止むまで高村はそのままずっと抱きしめていた。

 ◇ ◇ ◇


 空が白み始めたころ、高村はその言葉の通りそれ以上は何もせず帰って行った。


 武川はいつものように慣れた手つきで身支度を整える。シャワーを浴びると鏡に映る自分を見た。高村に促されて冷えたタオルで目元を冷やしたので、鏡に映る自分の顔はいつもと何も変わらない。一筋の乱れもないよう髪の毛をセットすると、皺ひとつないシャツに袖を通し、オーダーメイドのスーツを身に着けた。リビングへと向かうとコーヒーメーカーから良い薫りが匂い立つ。何も変わらない朝、いつものルーティーン。

 武川は愛用のマグカップにコーヒーを注ぐと、マグを持ったまま窓の外を見上げた。ただ、いつもと違うのはあれほど苦く感じたコーヒーが甘く薫り、見上げた空がどこまでも青かったということだ。

 「さぁ、今日からまた仕事だ」

 そう誰にでもなく呟きソファーから立ち上がると、新しい扉を拓くように自宅のドアを開けた。

 

青い空と、甘く香る珈琲(前編)


「ね、ね、牧くん!最近、武川主任変じゃない?」

 職場の昼下がり、そろそろ昼食でも摂ろかとデスク周りを整理していると、唐突に舞香さんが話しかけて来た。

 「え?どんな風にですか?」

 もともとデスク周りは整頓されていて、整理するといってもファイル類を元に戻すくらいなのだが。俺は舞香さんに向き合うと興味深く耳を傾けた。

 「いつも順番通りに並べてないとすぐに並び替えるのにそのままだったり、モップでずーっと同じところを掃除してたり、アッキーと屋上でランチしてたら、ひとりでぼんやり空を眺めてたりするのよー」

 「え?そうなんですか?」

 「何かあったのかしら?まるで誰かに恋してるみたい。ウフフフフ!牧君なにか聞いてない?」

 「いや、知らないです」

 (前にちずさんが言っていたあの人だろうか)

 別に野暮な探りを入れようというわけではないけれど、全く興味がないというのも嘘になる。ここ数ヶ月、春田さんとのことで色々あったので自分にしか気が回っていなかった。

 (政宗には春田さんとのことで色々とお世話になったし、俺に何か出来るかわからないけど話くらいは聞いてあげたい)

 それはかつての恋人に対する気持ちというより、友人としての気持ちに近かった。


 ◇ ◇ ◇


 定刻後、俺は政宗を誘いわんだほうへと向かった。並んでカウンター席へ座り、いつものように乾杯の合図から始める。

 「今日もお疲れ」

 「お疲れさまー」

 「お疲れさまです」

 カウンター越しにはちずさんも居る。自分一人では心許ないので、ちずさんにも付き合って欲しいとこっそり根回ししたからだ。

 「で、どうしたんだ?何かあったのか?」

 一杯目のビールで喉を潤した政宗が上司の顔で聞いて来る。

 「あ、いえ、別に何も」

 「ふは、なんだよ、また春田となにかあったのかと思ったぞ」

 「いえ、おかげ様で上手く行ってます」

 「おいおい、惚気を聞かすために呼んだのか?」

 「武川さんには色々とお世話になったので、ちゃんとお礼が言いたかったんですよ」

 「なんだ?何も出ないぞ」

 くしゃっとした笑顔で目尻に皺が寄ると、年相応に見えてどこか愛嬌もある。気の置けない相手にしか見せない顔だ。このギャップが好きで惹かれたんだよなとぼんやり思う。楽しそうに喋りながら酒が進む政宗を盗み見つつ「いつもと変わらないよなぁ?」と心の中で思っていた。唐突に「武川さんの方はどうですか?」とも聞けず、どう引き出したものかと考えあぐねいていると、ちずさんが助け舟を出してくれた。

 「武川さんは最近どうですか?」

 「え?何がだよ」

 破顔しながら政宗がちずさんに聞く。

 「今日はあの方はまだ来てないですね」

 「ん…あぁ?高村か?」

 「そう、高村さん。最近、一緒に飲んでらっしゃらないじゃないですか」

 「ん、あぁ…まぁ、な」

 急にどもり出した政宗を見て、その露骨な反応にびっくりした。

 (え?明らかに動揺してる。いつもとうとうと流れるように言葉が出て来るのに)

 それは自分の中の嗜虐心を擽る仕草だった。

 「実は最近はこちらからは連絡を取ってないんだ」

 「え?そうなんですか?」

 ちずさんが特になんでもないようなトーンで、それでもやんわりと探りを入れる。俺も隣でなんでもない風を装い、政宗の次の言葉を待った。

 「ん…まぁ、なんというか、ちょっと気まずいというか、いや、別に嫌というわけじゃないんだが、喧嘩をしたというわけでもなくて、なんと言うのか…少し顔を合わせ辛くて」

 少しはにかんだような笑顔を浮かべながら、曖昧にちずさんに答えている。

 (政宗のそんな顔初めて見た…)

 驚きと喜びが混ざったようなテンションを抑えつつ、チラリとちずさんにアイコンタクトを取ると、彼女もニヤける口元を押さえて笑いを堪えているように見えた。やっぱり女性の方がこういう嗅覚は鋭いらしい。

 (政宗は恋をしている!)

 俺はそう心の中で確信した。

 「高村さんからは連絡はないんですか〜?」

 ちずさんはのんびりした口調で、少なくなっていた政宗のコップにビールを注ぎ足した。

 「ああ、俺たちは互いに干渉し合わない方だから、仕事が忙しい時に連絡がないことはしょっちゅうある。時間を作ってまで飲みに行くこともないしな」

 それを横で聞いていて、そのすれ違いが自分たちの別れに繋がったのだとぼんやり思い返していた。だから春田さんとは時間を作ってでも話をするようにして、なるべく会うようにしている。でも、当時はそれが多忙な政宗への気遣いだと思っていたし、話したい気持ちや会いたい気持ちを抑えることが信頼の証のように思っていた。

 それでも春田さんは違った。自分の気持ちに真っ直ぐで、バカ正直で、全然我慢なんてしない。最初こそそれに戸惑いはしたものの、ストレートに愛情をぶつけられることや、こちらからぶつけることも、互いを知る上で重要なのことなのだと知った。臆病で全てを抱え込んでしまう自分を、なんのためらいもなく飛び越えて来てしまう打算のなさが俺には必要だった。

 「武川さんは本当にいいんですか?」

 いつか自分に投げかけられた言葉。

 (本当にいいのか?)

 「おい、なんだよ、いきなり」

 「武川さんは高村さんから何の連絡もなくて、本当にそれでいいんですか?寂しくないんですか?」

 自分の中で政宗の言葉を反芻するように言った。彼にいつかの自分を重ねて見るあまり、つい口調も強めになってしまう。

 「それは…」

 政宗が言葉に窮していると、ガラララ!とわんだほうの入り口の戸が開いた。

 「いらっしゃい!あっ…」

 ちずさんが戸口の方を見て固まっているのを不審に思い、促されるように戸口へと視線を向けると、そこには長身の男が立っていた。

 「あれ?武川」

 その男は政宗を見つけると人なつこい笑顔を浮かべてゆったりと近づいて来た。政宗は「高村…」と呟いたきり放心状態だった。

 (この人が高村さん…)

 「今日は約束してなかったのに奇遇だな」

 高村さんは政宗の右隣に座ると、その奥の俺を見やり「こんばんは」とにこやかに挨拶をして来た。その声に放心状態だった政宗が我に返り、簡単な紹介を始めた。

 「あ、こいつは高村。大学の頃からの友人だ。といっても再会したのはここ数ヶ月前だがな。彼は牧だ。同じ職場の部下だ」

 「はじめまして、牧です」

 「高村です。いつも武川が面倒かけてませんか?」

 「ちょっ、おい」

 「いえ、そんなことは。いつもお世話になっています」

 (政宗は俺のこと、高村さんに話してはないのか?)

 高村と名乗った男はスラリとした長身で、背丈はおそらく政宗と同じくらいだろう。目鼻立ちがはっきりとしていて、やわらかそうな前髪をふわりと下ろしている。低めの声には独自の響きと艶があり、雄としての魅力を十二分に発揮していた。髪を下ろしているせいか全く威圧感はなく、やわらかな物腰には大人の余裕すら感じた。良く言えば人当たりがソフトで、悪く言えば飄々として掴み所がない感じがした。

 「最近、仕事が忙しくてな。悪い、連絡できなかった」

 「別に謝ることじゃない。そんなことはわかってる」

 「まさかお前がここで飲んでるとは思わなかったよ」

 政宗に向けられるまなざしの熱さが彼越しにも伝わって来て、さすがに面食らってしまった。

 (こんなに愛情表現がダダ漏れな男は初めて見た。春田さんのそれは単なる好意だけれど、高村さんのそれはもっと複雑な感情な気がする。もしかして牽制してるのか?いや、考え過ぎかな)

 政宗はそれとなく高村さんと目を合わせないようにしているけれど、高村さんはまっすぐに政宗だけを見つめていた。

 (もうなんだか見てられないな。二人の空気に当てられてこっちがのぼせそうだ)

 それはちずさんも同じようで、高村さんに「いつものでいいですよね」と声をかけて雑用をこなし始めた。そうなると手持無沙汰になってしまい、かといって二人の世界に割って入れる雰囲気でもなく、ここは退散すべきだと政宗と高村さんに声を掛けた。

 「あの…俺、明日早いんで、今日はこれで失礼します」

 「おい、牧」

 政宗がひとりにしないでくれという風に、心なしか潤んだ瞳で訴えかけて来た。

 (なんなんだよ。完全に恋する乙女じゃないかよ)

 俺は心の中で必死に笑いを堪えた。何があったのかは知らないけれど、これ以上、政宗の恋路の邪魔をするわけにはいかない。後は野となれ山となれだ。

 「なら、俺たちが店を替えよう」

 高村さんがそう提案すると、そう言っている側から政宗の腕を取って席を立たせた。

 (強引だけれどスマートな立ち振る舞いだな。さすが大人の男だ)

 心の中で素直に感心する。この人なら政宗を任せて大丈夫だろうと思えた。どうか政宗にも幸せになって欲しいと、そう願わずにはいられなかった。


 ◇ ◇ ◇


 高村さんに引きずられるように出て行った政宗を見送ると、俺はちずさんと顔を見合わせて笑い合った。

 「ねぇ、牧君、武川さんてあんなに可愛い人だったの?」

 「いやいやいや、俺だって初めて見ましたよ、あんな政宗」

 「なんかさぁ、素敵な人だったねー。高村さんって」

 「ですね。仕事も出来そうだし頭もキレるけど、物腰が柔らかくていかにも大人な感じがしました」

 「うちのダーリンも直球だけど、高村さんも直球だったねー。当てられちゃった」

 「あはは。俺もそう思ってました」

 「武川さん、幸せになるといいね」

 「はい、本当にそう思います」

 俺がそうであったように、政宗も新しい恋へと一歩を踏み出して欲しい。そしていつか良い報告が聞けるといいとそう思いながらグラスを傾けた。


青い空と、甘く香る珈琲(後編)


 高村に腕を引かれてわんだほうを出たあと、どこへ行くのかは聞かず高村に任せていると、マンションらしき建物へと連れて行かれた。

 「店を替えるんじゃなかったのか?」

 「ん?俺の部屋。お前、さり気なく俺を避けてるだろ?」

 「そんなことは」

 いきなり核心を突かれて咄嗟に上手い言い訳が思いつかなかった。避けているのではなく、ただ恥かしいだけだ。あれからどんな顔をして会えばいいのか。友人として?それともそれ以上の関係で?

 「お前とゆっくり静かな場所で話したかったんだよ。再会してから俺の部屋にも呼んでなかったしな」

 仕事柄多くの物件を見ているが、高村のマンションは利便性に富んでいて、周辺の環境もとてもいいところだった。無意識に頭の中でマンションの相場と高村の年収を算出してしまう。ある種の職業病だと我ながら呆れる。

 エントランスを抜けてエレベーターに乗り込むと、気まずい沈黙が流れた。何か会話の糸口を探ろうと焦れば焦るほど何も出て来ない。そんな俺を傍目に高村は別段気にした様子もなく、意識しているのは自分だけかと少し切ない気持ちになった。高村は慣れた手つきで自分の部屋のドアを開けると、俺を招き入れた。

 「適当に座ってくれ。コーヒーでも飲むか?それとも飲み直す?」

 「コーヒーを頼むよ」

 「了解」

 通されたリビングはウッディーな床に黒を基調としたシンプルなインテリアでまとめてあり、いかにも洗練された独身男の空間だった。それでも殺風景さを感じないのは、木のぬくもりがあるフローリングや、暖色系の照明のせいだろうか。部屋は空調が効いており、暑くも寒くもなく快適だった。開口を広く取ってある窓からは美しい夜景が見下ろせた。

 「いい眺めだな」

 昼間の喧騒から遊離したマンションの一室はまさに心のオアシスといった感じで、ここが高村の部屋だと忘れてしまうほど落ち着く場所だった。コツンという音に振り返ると、高村がマグカップをテーブルに置いているところだった。軽い既視感。以前は自分がそうやって高村にコーヒーを淹れた。

 「まあ、座れよ」

 そう促されて黒いソファーに腰を下ろす。高村は向かいのひとり掛けのソファーへと腰を下ろした。心を落ち着かせるようにコーヒーで喉を潤すと、俺は誤解がないよう意識して口を開いた。

 「別にお前を避けていたわけじゃない。ただ、恥かしかっただけだ」

 高村からは、ふ…と吐息交じりの笑みが返って来た。全く予想通りだ。わかってるんなら聞くんじゃない。

 「高村…俺は結構、面倒くさいぞ」

 「知ってる」

 「それに嫉妬深いし」

 「ああ、わかってる」

 「自分でも情けないくらいに自分をコントロールできなくなるし」

 「それで?」

 いつの間にか高村は俺の傍にいて、俺が持っていたカップを取り上げるとテーブルの上に置いた。

 「もうキスしてもいいか?」

 高村に肩を引き寄せられ、顔が近づいたかと思うと唇を塞がれた。高村は軽く啄むようなキスを繰り返す。その度に胸の裡に甘く切ない感情と淡い疑念が頭を擡げる。高村は決して無理やり自分の胸の裡を暴こうとはしない。だから俺から行動を起こすのを待っているのだ。過去に囚われず頑なな心を開けと。この男に俺は全てを預けていいのだろうか。

 「んっ…ちょっと待ってくれ」

 高村を引き離すとささやかな抗議の言葉を口にする。

 「まだ…好きだと言われてない」

 「案外、乙女なんだな」

 高村に薄く笑われて、乙女とはなんだと反論しかけた刹那「愛してる」と突拍子もない告白をされた。

 「なっ…!」

 「ふは、長い付き合いだが、お前って可愛いんだな」

 高村が目尻に皺を作って楽しそうに笑う。俺の中で何か温かいものが拡がり、まるで雪解けのように心がほどけていく。俺はもうかなりこいつにほだれているのかもしれない。

 「からかってるのか?いい歳をしたオヤジに可愛いはないだろう」

 「それで?」

 「なにが?」

 「お前はどうなんだ?」

 「そんなの…俺は大学の頃にお前が好きだったんだよ。知らなかったのか?」

 「ああ、なんとなくは、な。あの時はお互いにタイミングが合わなくて。俺には付き合ってる奴が居たし。だから再会出来た時は嬉しかったよ。それでもお前は俺の前で好きだった男の話をして泣くから、少し虐めたくなった」

 「お前が妬くって?」

 「意外か?」

 「ふ…そうだな」

 自分だけに投げかけられる甘い囁きが心地いい。

 「それで今は?」

 「ん?」

 「それで今はどうなんだ?」

 高村が俺の手を握って熱い眼差しを向けて来る。俺は真っ直ぐに高村を見つめると、意を決して言った。

 「好きじゃなきゃ、とっくに殴り飛ばしてるよ」


 ◇ ◇ ◇


 ふいに遠い記憶が蘇った。

 『武川!』

 俺を呼ぶ人なつこい笑顔が眩しかった。大学時代に密かに想いを寄せていた相手。その時には遂げられなかった想いが、息を吹き返したように溢れて俺を満たして行く。快楽と、愛おしさと、満たされる喜びとがないまぜとなって涙が溢れた。


 ◇ ◇ ◇


 明け方、まどろみから覚醒した俺は昨夜のことをぼんやり思い返していた。心地よい気だるさの中、シャワーを借りようと起き上がると部屋の間取りがわからないことに気づいた。

 「…はよう」

 俺の気配を感じたのか高村が目を覚ました。

 「あ、悪い。起こしたか?なあ、シャワーを貸してくれないか」

 「ん?ああ…なんなら一緒に入るか?」

 「は…もう勘弁してくれ」

 「ふ…」

 お互いに笑い合う。

 「俺もシャワーを浴びたら昨日のコーヒーを淹れ直すよ。あ、それとお前コンタクトにしたらどうだ?」

 「ん?別にいいが」

 「あ、いや、やっぱりやめよう。お前の可愛い顔は他の男に見せたくないしな」

 「ふは…バカかお前は」

 些細な会話も、甘い囁きも、今の俺にとっては全てが愛おしい。

 「場所さえ教えてくれれば、これからは俺が淹れるよ」

 澄んだ青い空の日も、鈍く曇った雨の日も、冷たい風の吹く日でも、高村と一緒に飲むコーヒーはきっと、甘く香る。


 リフレインに続く




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