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美意識は無意識への扉かもしれない

山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』を読了しました。

デザイン、デジタル、哲学に関わる一人として、それらの観点も交えながら思ったことを書いてみます。

「意識できるもの」への偏重

本書の前半では、経営における「論理」と「理性」への偏重が、複雑化した現在の社会に対応しきれなくなっていることを挙げ、そんな環境でも決断をしていく武器として「直感」や「感性」を活かす、つまり「美意識」によるアプローチこそ重要だと書かれています。

そして経営学者ヘンリー・ミンツバーグが掲げた、経営とは「アート」「サイエンス」「クラフト」が混ざり合ったものという定義を引用しつつ、本書で重要とする「美意識」にも通じる「アート」、つまり創造性を高め、未来を展望し、関わる人たちをワクワクさせるような姿勢は、「サイエンス」「クラフト」と比較されると、その「説明のできなさ」(アカウンタビリティのなさ)からまるで不要なもののように扱われる現状を指摘しています。

デザインの仕事をしていると、まさにこれら3つが混ざり合ったような場面に、何度も遭遇します。

たとえばあるアプリケーションの画面を考えている際、その画面を1つの目的達成に集中できるよう、配置する要素を絞り込む(目的と外れている機能を削ぎ落とす)デザインをしますが、この際によく上がる声が「ここの隙間にこのボタンもあのボタンも入れた方が便利だから、入れといて」というものです。

それだと本来の目的に集中できなくなるのでやめておきましょう、と主張しても、「集中できなくなる根拠は?十分なデータがあるの?」(論理的)、「いや、それくらい馬鹿じゃないんだからわかるよ。他のサイトでもこういうのあるし」(理性的)などと反論され、こちらも行動経済学や認知学を持ち出すものの、今回の課題そのものズバリなデータがあるわけもなく、こういった方たちに納得してもらうのは大変で、本書で書かれているアカウンタビリティの格差、つまり「サイエンス」と「クラフト」に「アート」は説明力で必ず負けることを数えきれないほど体感してきました。

「美意識」が引き出す「無意識」

「サイエンス」や「クラフト」というのは、言い換えると「実証済み」なものであり、「現在」または「過去」にあたります。

これらを扱うときに共通しているのは、意識して扱っているという点です。目に見えるもの(数値データ)であり、触れられるもの(物体)ということは、それだけ他人との共有がしやすく、意識できるものだといえます。

対して「アート」は、「思い描くもの」であり、「未来」に現れるものです。具体的に表されることはあまりなく、なんとなく感覚的に表現されるものだと本書でも書かれています。

他人への説明力では「サイエンス」「クラフト」に大幅に劣る「アート」ですが、他2つと比べ「これまでにないもの」を創造する力を持っていると考えられ、それが閉塞した雰囲気のある日本では特に際立って光るように思えます。

「アート」の姿勢、つまり直感が導き出す解が優れたものかどうかを判断するのが「美意識」ということですが、その過程で発揮される力は実に面白いものです。本書ではチェスや将棋のエキスパートの思考を例に説明していますが、瞬時に「美しい」と感じる形を浮かべ、それを目指すと「論理」や「理性」で勝負してきた相手を負かせてしまう。

ここに仮説を立てると、「美意識」を心がけて活動すると、「無意識」処理能力に火が入り、凄まじいスピードで取捨選択が行われるのではないか、と。

もしそうなら、「美意識」は唯一人の能力を飛躍的に伸ばすトリガーなのかもしれない、と楽しく妄想させていただきました。

#読書の秋 #世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか

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