心の声に従う。
結婚一周年なので、こんな記事を書いてもいいかもしれない。
無人島キャンプを経験して、牧師や牧師の卵たちに出会い、
また伊勢神宮で古事記の語り部の方に出会って、
彼らがあまりにも喜びに満ちていたので、
そういう「神的な道」を歩めないかという可能性を模索していた。
その思いが抑えきれなくなり、四国遍路の時に出会った、A神父が西宮の教会に赴任してきているというので、ふらっとある日のミサに訪れた。
「君、神父になる気はないか」と勧めてくれた神父だ。
その後、教会前の焼き鳥屋さんに連れて行ってもらい、飲みながらあれこれ語り合った。
どんなことを話したかはさっぱり忘れてしまった。
しかし、お店を出て、駅に向かい、帰宅する最中のあのまさに天啓のような猛烈な違和感というか、
「俺には無理だ!どうしても無理だ!」
という絶望感はいまでもはっきり思い出す。
「日々祈り、神様のことばっかり考えていられるのは嬉しい・・・
しかし、カトリック教会という固定化した組織の中で結婚もせずに一生を終えるのは私には無理だ!!
彼女が欲しい!
彼女が欲しい!
彼女が欲しい!
恋がしたい!
恋がしたい!
恋がしたい!
隣に女の子がいなかったら寂しくて狂ってしまう!」
まさに、その一点であった。
もし、結婚しても良い牧師だったら、迷わず喜んで神学校を目指していただろうが、結婚せず生涯の貞潔を神にささげる身分となるとハードルは恐ろしく高い。
もし、仮に私がカトリックの上智でなく、プロテスタントの同志社を選んでいたら、牧師をしていた可能性は大きい。
その場で呻くような祈りを絞り出した。
「いや、ほんますみません、神さま。
伴侶が私には必要です。
神父としてあなたにご奉仕はできませんが、うちの家庭を聖なるものとしてお捧げ致しますので、どうか・・・。」
それで、それまでの「神学校に行くんだ」みたいな流れというか雰囲気のようなものに水を差すように、
「すみません、あれから、考えたんですけれども・・・」
とお伝えすると、
「本当の召命は分からん。時間はたっぷりあるから焦らなくていい。」
と寛大にも待ってくださった。
どうも、私の魂の根底に、あらかじめこの人と定められていた伴侶がどこかにいるのだという不思議なこだわりのような確信があった。
お恥ずかしい話、
私の心の中には私の分身であり、眼鏡をかけて、羽を生やした「ガーディアンスピリット」のようなものがおり、
いつも私の味方であり、私を理解してくれ、どんな時でも慰めてそばにいてくれて応援してくれる存在がいると思って、
ノートに「彼女」との対話を書き綴っていたものだ。
また、「もし仮に自分が女性として生まれていたらどんな人生を送ってどんな恋をしていたか」みたいな妄想をノートに書いていたこともある。
その「ガーディアンスピリット」「女性の私」そのままそっくりの存在が、三年後に見事に現れたのだ。
しかも、洗礼は受けていないがカトリックの小学校育ちで、信仰は持っている。
その西宮の教会で、私は彼女と結婚講座を受講することになったというのも不思議な縁だ。
その話はさておき、私の人生、周りの期待などで「こうなるんじゃないか」という「流れ」を裏切るような選択が何かと多い。
留年だってそう、四国遍路だってそう、幕屋にとどまらなかったのだってそう。
「生まれる前に決めてきた魂の計画」のようなものが私の中に神さまから蒔かれていて、その設計図と違う方向に進もうとしたり、第三者がたとえ善意からでも、そこに介入し始めて、抑えつけ、その種の伸長を阻害するようなことが起こった時に、私はノイローゼのようになってしまう。
逆に、客観的に道が全く見えなくても、「魂の疼き」に正直に従って一歩を踏み出し続けているときは、本当に生きていると感じる。
魂が燃えていて幸福だと感じる。
そして、その生き方を貫き続けていると、自分を支えてくれる出会いが準備されていたかのように現れて自分を迎え入れてくれる。
而して、歴史上の偉人というものは周りの常識や安定、「人からどう思われるか」ということよりも、そういった「心の声」に正直に生きる術を持ってその生き方を貫き通した人間がほとんどだ。
心の疼きを抑えつけていてはいけない。
他人にどう思われるかを気にしていてはいけない。
とにかく、自分の心の奥底にある小さな炎にたいして忠実に生きるべきだ。
それはとりもなおさず、「神の声」に他ならない。
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