知性と教養

先日、会社で女性チームの労働環境ヒアリング、という名のケーキ付き座談会があり、ちょこちょこ発言していたら、いきなりその日のうちに『Core Teamに入りませんか?』とスカウトされた。

外資系にも関わらず("外資系"というのもバイアスなのだけど)、あまりアグレッシヴな女性リーダーがいない今の会社で、例えばセクハラがあったとしても窓口もきちんとあるのにみんなスルー、というかまぁいっか、で我慢しているらしい。

それに対して、『セクハラ自体を自覚してないかもしれないのだから、ひとまず一旦伝えてみては? それで気づいて改善すればイエローカードで済むけど、改善しないならレッドカードを出す必要があるでしょう』と言っただけなのだけれど。

今の会社は業種的に女性が少なくて、年代的にも50代前後がとても多い歪な状態なので、そこで長年勤めてきた人たちは会社でハラスメントのトレーニングなどを受けてはいても、他人事としてしか捉えていないのだと思う。

加えて年収も高め、バブル世代前後の男性は『20代で所帯を持って一人前』、女性は結婚するまで腰掛けOLと言われていた時代で、必然的に奥様は専業主婦かそれに準ずるような人が多い。
そうなると、私含めフルタイムで会社にいるような人間は自分の妻とは別人種と考えているのではないか?
もしかしたら、"女性"と認識されてすらいないのでは?(もちろんそうでない考えの人も一部、いるにはいるけれど)

テレワークに制限もなく、かなり柔軟に働ける環境で、突発的な子供のトラブルで迷惑をかけても嫌な顔もされないけれど、それなのに他人事というか別世界の人みたいに眺められている雰囲気を感じるのは、こんなところから来ているのかなぁとも思う。


私自身は両親から『女の子だから』と何かを制限されたことがない。
高校は公立の女子校で、進学校だった。
卒業して就職する子は毎年1人か2人、当たり前のようにみんな四大を目指していた。
大学を出て入社した会社も、その次の会社でも、女性だからという雰囲気は微塵も感じなかった。
当たり前だと思っていたその環境が相当に恵まれていたのだと理解したのは、実はついほんの最近の事。


先日読んだ『マチネの終わりに』の中の、洋子と上司のフィリップとの会話に、印象的なパートがある。

洋子がある詩集から引用して語り、ふと気付いて自嘲気味に、
「ブッキッシュ(Bookish)でいやな女ね、わたし」 というと、フィリップは、
「ゲーテを知らない女よりは、セクシーだよ。」
「いい歳して知的でない女と寝てしまうと、明け方、惨めな気分になるよ。」 と返すのだ。

"女性を抱く時はプリミティヴな衝動を優先させているけれども、いざ理性が戻って来た刹那、自己嫌悪に陥る。
抱いた相手は自分の写し鏡のようなものだから、ただの性欲に負けて寝てしまった自分もまた、知性のない人間だと認めるようで惨めになる"
大体こんな解釈だろうか。

会社で上司とこの手の話を下世話にならず知的な会話として成立させられる日なんて、きっと何十年、下手したらこのまま一向に、この日本には訪れないのだろうなぁ、と日仏を比較して暗澹たる気持ちになる。

「教養の無い男は、誰もベッドを共にしてくれないわよ。」

会話の最後に洋子がフィリップに愉しげに言うのだけれど、その実フィリップはとても教養に富んだジェントルマンで、逆説的な洋子の言葉もウィットを含んだ褒め言葉だ。

実際、『マチネの終わりに』に登場する男性の中で、フィリップが一番素敵だと私は思う。
蒔野は洋子より2つ歳下の設定だから、少し物足りない部分もあるし、ただ単に、私自身が精神的に成熟している男性(=必然的に歳上になりがち)が素敵だと思うことが多い、ということも大いに関係しているけれど。

対して、私達の周りの男性たちはどうだろうか?
相変わらず、若さ、ルックス、可愛らしさが女性の美点で、少し理知的だったりすると『面倒』『生意気』と貶められたりする風潮。
高学歴の女子は敢えてそれをひた隠す。

知性溢れる女性には異常なほど欠点を粗捜しし、マウンティングする。
精神的に成熟していない男性がマジョリティであることに辟易し諦観しながらも、その男性たちに媚びて知性と教養を磨く事を放棄した女性たちが、街に溢れている。


洋子のように、凛として生きたいと思う。
しなやかに、Bookishになりすぎないようなバランスを取りながら。
彼女ほどの知性はないけれど、せめてフィリップがここに居たら「セクシーだね」と言ってもらえるくらいには、知的でありたい。


↓『マチネの終わりに』の感想はこちら


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