見出し画像

【玄暁録】(3) ~義衍老師語録「更に向う処なし」

 井上哲玄老師は、500-600年間に1人と言われ近代の高僧・古仏と尊敬される井上義衍ぎえん老師を父とし、母・芳恵の長男として龍泉寺に生まれた。そして、哲玄老師は義衍老師の指導法を、その言語表現において、更に現代的に進化させている。

 ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。


3. 更に向う処なし(井上義衍老師語録より)

 坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、それを善いとか、悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。ただそういうことです。
 それをやりますと、次第に、あっても気にかからぬようになる。
 気にかからぬようになると穏やかになって、ただ事柄のみが在るようになる。

 まだ事柄を知る自分がありますけれども、そういうものまでも、やがて何処かにおいて本当にということ、自己を忘ずるということがあります。そういう縁を結ぶということがある。

 その後も、ただ縁に触れて動いているのみにして、別に問題がないということがありますから、悟る前の様子と悟ってから後の様子が、いっぺんに完成するような方向で弁道してもらっているということです。
 祖師方は皆、そういうふうにされて来た。

 何の為ということはない。赤子は何の為に食べるのか、見るのか、泣くのか、動くのか、大小便をするのか。目的がなければ生きがいがないのか、いや気や、いい加減にしか、しないのか、不足があるのか。
 更に自己を立てて向う処がない。大人は思うことを縁として邪推するから迷いの元となる。赤子は堂々とこれをやってのけている。

(井上義衍老師語録 pp.13-14)


 今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。

 坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、それを善いとか、悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。ただそういうことです。 それをやりますと、次第に、あっても気にかからぬようになる。
 気にかからぬようになると穏やかになって、ただ事柄のみが在るようになる。

 何があっても、善いとか悪いとかいう思念に巻き込まれず、そのまま捨ておけば、次第に、何があっても気にかからなくなる。この部分は坐禅を修するうえでの心掛けを示している。参考に、哲玄老師が同様に坐禅の心掛けを語っている動画があるので、下記に編集引用しておく。

 これ 2500年ず~っと、体験者はおっしゃってる。「いいか悪いかさえなければ」っておっしゃってる。生活の中に。後からですよ、後からやるんですよ、『いいか悪いか』は、『好きか嫌い』も、後からやるんですよ。

 車がとおるのだってそうでしょ、ワ~って行ったり、ピーポーって行ったり、ただそういうことだけで終わりです。徹底その、今の触れてる実物によって、人間の考え方が、根こそぎ無いところに、触れるようになっています。これで、自覚と言ったり、悟りと言ったり、徹すると言ったりしてる。

 全部手元にある話。それを学んで頂くために、実際には、坐禅をするっていうことが起きてくる。坐禅をするっていうことは、足を組むっていう形のことじゃないです。そこに身を置いて、さっきから申し上げている、居ながらにしてそのまま、全部そうでしょう。

 聞こえることも、見えることも、一切、さっきから話していること、皆、居ながらにして、全部そこで活動して、全部いただいて生きてます。

 坐禅をする要訣は、今話をしたとおり、聞こえっぱなし、見えっぱなし、思いっぱなし、全部、全部そのまま、やりっぱなし、一切いいとか悪いとか言わないで、徹底そのままにしておいて頂くっていうことが、坐禅の要訣です。

💛この引用は、哲玄老師の言葉の引用です。
2019年5月26日 "【前編:提唱】井上哲玄老師 愛知禅会 於 宇宙山 乾坤院"  YouTube 動画

 哲玄老師の説明は、いつも、日常の言葉で、どこまでもやさしく語られている。

 義衍老師の語録に戻ろう。「穏やかになって、事柄のみがある。」これは、自我観に捕まる前の、<今の事実に生きている自分の在りよう>を言うのだと思う。


 まだ事柄を知る自分がありますけれども、そういうものまでも、やがて何処かにおいて本当にということ、自己を忘ずるということがあります。そういう縁を結ぶということがある。

 これは、師家に独参する過程での、目安としての修行の段階の話で、いわゆる「気づき」と「大悟徹底」の違いを説明している。禅の修行の段階では、「見性けんしょうと悟り」の違いとして説明されるところの、悟りの前段階の単なる「気づき」と、「大悟徹底」とを区別する、重要な判断基準のことだ。

 晩年の原田祖岳の門下では、まだ悟りとも言えないちょっとした気づきに触れただけの者も、見性の印可を与えてしまっていたように伝えられている。哲玄老師によると、それではまだ不十分なのだというのである。

 完全なる没我により、自我という認識者が微塵も残らない、通底つうていを脱した者のみが「大悟徹底」の印可に値するということだ。

 ここは、正法としての禅を理解する上でとても重要なので、哲玄老師の YouTube動画での解説を引用しておきます。

 「見性」はね、少なからず、(顔の周りを両手で指して)コノモノが本当に、縁に触れて活動しているだけだという、人の本性に、いささか触れるっていうことです。ちらっとでも、触れるとそこが明確になるので、その辺のところで、ほぼ「見性」を認めてますね。

 だけど、その頃の様子って、よく見てみると、ちゃんと自分が体験したことを、全部知ってるんですね。見性というものの中には、ほとんど全部それを知ってる人がちゃんと残ってるんです。

 それで、最終的に決着が着くっていう時には、そのときの様子、認識が死に切るということ。で、そこに再び認識が動くっていうこととの、時間、期間的なことですね。で、その前の状況っていうのは、自分の存在も、物の存在も、ともかく一切無いっていうことです。

💛この引用は、哲玄老師の言葉の引用です。
2014年11月1日 "井上哲玄老師 修行方法法話②、YouTube 動画より


 つづいて、悟る前と悟った後について、義衍老師は以下のように説明する。

 その後も、ただ縁に触れて動いているのみにして、別に問題がないということがありますから、悟る前の様子と悟ってから後の様子が、いっぺんに完成するような方向で弁道してもらっているということです。
 祖師方は皆、そういうふうにされて来た。

 これも、単に見性前の、わずかに無我の体感を得ただけの「気づき」の段階との区分けが難しいが、わずかに垣間見た「気づき」を経験しただけの修行者でも、無目的とか、無功徳の境涯は、感じ取れるようになるものと思う。

 義衍老師は「悟る前の様子と、悟ってからの様子が、いっぺんに完成するような方向」と言っているが、道元禅師の「脱落身心」の自覚を言うのだと思う。

 義衍老師は「いっぺんに」というが、哲玄老師の場合はもう少し丁寧に、「悟る前から、人間はみな、もともとそうなんだ」という説明に徹している。ここも少し、哲玄老師の丁寧な説明を編集引用しておく。

 お釈迦さまが悟られたという内容の、中身は、今あれから 2,500有余年になりますけれども、じゃあ、今、私たちはどうかって言ったら、

 私たちもお釈迦さまと同じ生活をしているんですよ。お釈迦さまと寸分変わらない生活ができてるんですよ。これから教えを聞いて、修行をして、時間をかけて、積み重ねて、努力をして、普通そう思っているけども、そんなこと一切ありません。

 仏教の話も、禅といわれる話も、お寺に行ったこともない、仏典を読んだこともない、まったくそういうのとは無縁の生活してても、それじゃあ、(パシッ!)この音に触れたときに、このとおりに聞こえるってことは、今申し上げたような経験は一切いらないでしょ。

 
いきなり今触れていることだけで人は生きてますから、修行の積み重ねに用はないようになってる。お釈迦さまも、そうおっしゃっている。

 だから、誰でも気がつけるようになっている。無いものじゃないからね。これから作り上げるんじゃなくて、もともと生まれたときから備わっているものですから。

 全活動が、この自分自身のありようだっていうこと。そういうことが明確になったっていうことなんですよ。

 聞いては理解できるかもしれないけど、聞いたものじゃなくて、実物に触れて、そのとおり、本当に、そのとおりになっているんだなってことが、自分で胸落むなおちするってことですよ。

 疑う余地がないほどハッキリ、自分でそれがうけがえる人になるってことですよ。

 結論はここです(パシッ!)、ね、これ(扇子を振って聴衆を指しておいて)<今の生きざま◦◦◦◦◦◦>の私です、<今の生きざま◦◦◦◦◦◦>の(パシッ!)、ここ結論ですよ。

 
これ、「考え方」で、『何を言わんとしてるんだ』とか、『なんの意味があるのか』とかって、それは人間の「考え方」についての話じゃないですか。

 <この実物>を(パシッ!)、パシッとこれだけなんですよ。明確じゃないですか。

💛この引用は、哲玄老師の言葉の引用です。
【カフェ寺 2018年9月24日】 のYouTube 動画より


 何の為ということはない。赤子は何の為に食べるのか、見るのか、泣くのか、動くのか、大小便をするのか。目的がなければ生きがいがないのか、いや気や、いい加減にしか、しないのか、不足があるのか。
 更に自己を立てて向う処がない。大人は思うことを縁として邪推するから迷いの元となる。赤子は堂々とこれをやってのけている。

 赤子のようにというのは、禅門ではよく説かれることだが、ここに、哲玄老師の解説を編集引用しておく。

 直接触れているときには、いいも、悪いも、好きも、嫌いも、そういう人間の「考え方」がまだくっついていないところで生きている。これが、皆さんがよく言う、『子供のように成れたらいいな』っていう、物心つくまでの様子っていうのは、そういうふうに、まだ、いいも、悪いも、自他も知らないで生きている。

 そういうところで、私たちは生きてきた。それは、今も持ち合わせている。その今持ち合わせている、そこに気がつくためには、「考え方」を使って、良し悪しをつけて、ものを見て、理解をしようというような勉強の仕方をしたのでは、そこには絶対に届かないっていうことだけです。

 全部、「考え方」は全部かなぐり捨てといて、ね、音であれば(パシッ!) 徹底(パシッ!)パチッ、(パシッ!)パチッ、(パシッ!)パチッ、(パシッ!)パチッ、(パシッ!)、こんなに明確なことが、今、手元にあるのに、(パシッ!)、

💛この引用は、哲玄老師の言葉の引用です。
2019年5月26日 "【前編:提唱】井上哲玄老師 愛知禅会 於 宇宙山 乾坤院"  YouTube 動画


2024.11.24 Aki Z


💎オンライン禅会の案内は、下記の公式サイトにございます。


💎見性と大悟の違いを知りたい方は、こちらの投稿も参考にしてください。



いいなと思ったら応援しよう!