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忘れられない言葉

GWも一瞬で終わってしまった。なんやかんや楽しい充実した連休だった。そして、緊急事態宣言が延長されて5月いっぱいはstay homeが続くことになった。正直もう自粛はおなかいっぱいだけど、休みの日はほぼ毎日友人とオンラインで話しているから、元気でいれる。ありがとうありがとう。

そして今の状況が「日常」になりつつある気もする。でも、やっぱりオンラインで会えば会うほど早くオフラインで会いたい気持ちが募っていく。タイムラグとか、電波の悪さとか、「え、今なんて言った?音声途切れてて分からんかったわ|д゚)」なんてフラストレーションも関係なく相手の目を見て話して笑い合える日が一日でも早く来ることを祈って、あともうひと踏ん張り。

さて、今日の本題。

「忘れられない言葉」

誰にだって、多かれ少なかれあると思う。

私の脳みそん中にも忘れない言葉は割とたくさん入っている。

例えば、高校の生物の先生が「細胞分裂はパピコやっ」(パピコとは、コーヒー味とか、ブドウ味とかある、あの夏のチューチューアイスみたいなやつです。)って言っていたのは多分一生忘れない。(笑)あの言葉のおかげで細胞分裂の定義も一生忘れないだろう。(つまりは、細胞分裂とは、一つの細胞が分裂してまったく同じ形の細胞ができあがること、それをパピコを二つに割ったときに例えていたわけ。)

まあ、こんなくだらんことを覚えていると思えば、亡くなったじいちゃんが「まりこはなんにでもなれる。」って言ってくれたこととか、塾の先生が「挫折したことがない、読書をしない人間が教師になるのは危ない」って言っていたこととか、何年も前のことでも未だに覚えている言葉っていうのはいろいろある。

その中でも一つ、ふとした瞬間に記憶に呼び起こされる言葉。それが、

「なんか、言葉が軽いんだよなあ。」

これを言われたのは、2年くらい前の話。どんな文脈でこの言葉を言われたかももはや覚えていないけど、なぜか、この言葉だけが切り取られて私の脳内に残り続けている。

決して、この言葉を投げかけた人のことを恨んでいるとか、言われて悲しかったとかそういうことでは全くない。ただただ、忘れられないだけ。

この言葉を言われた時、何か、衝撃を受けたことを覚えている。それはきっと、「言葉が軽い」人間だと思われたくないという無意識があったからだと思う。かといって重い言葉ばかりを放ちたいのか、と言われるとそういうわけでもない。そもそも、言葉の「軽い」とか「重い」ってどういう基準で判断されるんだろう、なんてとりとめもないことを考えたりしていた。今でも答えは分からない。

そして、今でも、相手に言葉を返した後に「今の言葉は軽いって思われていないかな、大丈夫だろうか」なんてふと思ってしまう時もある。ここに書いている文章自体も見ている人からしたら軽いものなのかもしれない。

ことばって不思議だ。同じフレーズだとしても、「誰」に言われるかで受け取り方が変わってくる。「言葉が軽い」って、行きずりの人、親しくない人に言われてもうんともすんとも思わないだろう。今回みたいに、尊敬して信頼する人から言われると、なんだか心にすんっと入ってきて残り続ける。こともある。

そして、言葉を放った人はいなくなっても、その言葉だけは生き続ける。亡くなったじいちゃんやばあちゃんが私にかけてくれた言葉の数々は今でも心の中にあって支えてくれている。反対に忘れたいのに忘れられない言葉だってある。(一つ言っておくと、今回の言葉は忘れたいわけではない。)

言葉は一度誰かの元に届けられたら送信取り消しすることはできないんだ。じゃあ受け取った側で消せばええやんってなるかもしれんけど、脳みそっていうのは不思議なもんで、忘れたい記憶や言葉こそずっと保存され続ける。

同じように、自分が放つ言葉が誰かにとって何かしらの影響を与えることもあるのかなと思うと、もっともっと自分の放つ言葉を見つめなきゃなと思う。ふと思ったことをポロっと言ってしまいがちな私だから、悲しませたり怒らせてしまった人もいると思う。申し訳ない。あと、「相手のことを思ってあえて厳しいことを言う」っていういわゆる愛のムチがあるけど、これは一歩間違えるとただの「嫌味」になってしまう。かといって「伝えない」っていうのは違う時もあるから、思っていることをどう伝えるか、が本当になんか難しいなあと思う今日この頃。まずは、この言葉を伝えたら相手はどう受け取るだろう、そういうことを意識して気持ちのいい言葉のキャッチボールをしていきたい。

書いていたら頭ん中がぐちゃぐちゃになってきたので、この辺で終わっておこう。

明日は久しぶりに会社に行って仕事できる日だ。楽しみ。